メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

有難いホワイトデー

 ホワイトデーの買い物ほど厄介なものもない。何のことはない。2月のバレンタインデーに頂戴した義理チョコレートの「お返し」にすぎないのだが、品選びは楽ではない。どうせ義理なのだから適当に見繕えばよいかと言えば、そうもいかない。義理だからこそ余計に始末に悪いこともある。
 品はハンカチと決めている。問題は柄と金額。センスが良くないと思われはしないか、安物と映りはしないか、逆にもらったチョコレートに比べて高価すぎ、変に勘繰られたりしないか、去年贈ったものと同じ柄ではないか……。迷うほどに頭の中が混乱する。そのうち大の男がハンカチ一枚選ぶのにぐずぐずしていてはみっともない、と自己嫌悪に陥っていく。それでなくても、女性用品売り場に足を向けるだけで気恥ずかしい。何とか選び終える頃には全身が汗びっしょりだ。
 だからといって、この年中行事をうとましいとは思わない。何よりも「お返し」をしておけば、来年もまた義理チョコレートを期待できる。多少の見栄はあるから、バレンタインデーに同僚たちが見守る中で、さびしい思いはしたくない。義理も財産のうち、いや義理しか財産はないのだから、投資は必要不可欠ということになる。

 実は、ホワイトデーを私なりに大切にしているのは、それだけの理由ではない。青春期への悔悟の念が作用していないと言えば嘘になる。
 東京オリンピックの前年、中学2年の時だった。後輩の女子生徒から生まれて初めてチョコレートをもらった。白い角封筒の手紙が添えられていた。はっきりしない文面だったが、相手の淡い思いは読み取れた。これは男として返事を書くべきだ。そうは思ったが、どう書いていいのかが分からない。特別な感情を抱いている相手ではなかったが、仮に抱いていたとしても、晩熟だったせいか、どうすれば良いのかは分からなかった。まだ流行もしていなかったし、その日がバレンタインデーとも知らず、ましてやどんな意味があるのかは承知していなかった。
 結局、手紙は書けずに終わった。手渡された時も突然だったので、ろくに礼も言っていない。相手とはそれきりになった。その後、チョコレートの意味を知り、とんでもないことをしたと思った。何と卑劣で礼儀知らずであったか。彼女はどれほど傷ついたのだろうか。40年以上も昔のことなのに、思い出すたびに心が疼く。
 もし、当時、ホワイトデーという便利な日が一般化していれば、私でも軽やかに返事を書けていたに違いない。彼女に礼を失することもなかったはずだ。身勝手とも感じながらも、ハンカチ選びの手は抜くまい、と心に決めている。