地上波サッカー番組に物申す!

かねてより、サッカー番組に疑問があった。それを裏付けるような記事を、今日26日付のラテ面のコラムに発見した。全く同感! と拍手したくなるような内容だった。有名選手のトークショーやインタビューはまだ許せる。選手の意外な本音や一面が垣間見えて、それはそれでありだろう。しかしつまらないゲーム合戦やお遊び企画は、見たくもない、のが本音である。結果としてファンがもっとも見たいはずのJをはじめとするゲーム速報や解説の時間が削られる。特に解説は、得点シーンでの選手の動きやディフェンスの対応ぶりなどを、実戦映像を交えて分かりやすく見せてくれるととても面白い。海外のゲーム情報と並んで、これこそがサツカーファンのもっとも望むものだ。

つまらないバラエティ番組化することで、サッカー番組からこうしたファンなら当然望んでいるはずの時間が削られることには我慢ならない。ところが番組制作側の言い分は、そうした専門的な内容は、一部のこだわりファンだけが望んでいるのであって、一般視聴者は、楽しい内容を見たがる。そうした専門的なプログラムを見たいなら、CSがあるだろう、との言い分だ。

ふざけるなと言いたい。TVは分かっていない。まずCSを見られる視聴者が何人いるか知った上で言っているのか。なにより、サッカーファンがもっとも見たいのは、サッカーゲームそのものである。バラエティではない。この点は、件のコラム氏も同じ指摘をしている。この例に限らずTV番組の在り方は、一見すると分かったようなことを言いながら、実は視聴者の意向を全く理解していない。分かっているとすれば、無視しているのか。傲慢ともいえるその体質は、いつかとんでもないしっぺ返しを食らうことになるだろう。

好奇心は楽しみへの加速剤

何気なく思い込んでいたことが実は違っていて、ふっとした弾みに真実に気付いたとき、「え〜うっそー」って感じで、はしゃいだり、やけに興奮状態に陥ったりすることがある。面白いと思う。そしてそうした再発見が、かなり多いこともまた興味深い。

ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの定番である「モアイ像」を知っている人は多いだろう。そしてそのほとんどが、あれはかのイースター島のモアイ像のレプリカだと思っているはずだ。とこう書いてくると、「あれっ?! もしかして渋谷のモアイは違うのかな。あるいは、あれってモアイじゃない?」なんて思いをめぐらせている人もいるのではないか。
ずばり正解。渋谷のそれはモアイではない。モヤイなのである。
「ええ〜、それってぇ〜、ちょっと言い回しが違うだけでしょう」なんてほっぺたを膨らませないでほしい。あくまで「モヤイ」なんである。しかも出身は日本。伊豆七島のひとつ、新島なんである。れっきとした国産。

先日、友人と待ち合わせて少し早めに着いたので、モヤイの周辺をぶらっとした折に、ふと小さな看板に気がついた。そこに「モヤイについて」との説明書きがあった。新島には古くから地域の人々が力を合わせ、その絆によって大きな仕事を達成する素晴らしい習慣があるという。それが「もやい」である。像はこの精神のシンボルとして、そこに人々が集い絆を育むきっかけになればとの願いをこめて設置した、というよう内容の説明だった。だから「モヤイ像」が正解なのである。う〜ん、これって面白い かな?

「主客転倒」を起こしている携帯電話

橋下大阪府知事が表明した「ケータイ禁止令」が、波紋を投げかけている。そしてこの問題は、単に学校に携帯電話を持ち込むことの是非だけでなく、学校や家庭で子供をどう育て、何を教えるべきかなど、さまざまな問題を浮き彫りにしてくれた。

メディアや一般の方向性としては、携帯は学校へ持たせるべきではない、橋下知事の方針には賛成、との論調が大勢を占めている。しかし、保護者などの声は必ずしも賛成で足並みが揃っているわけではなさそう。12月始めの読売新聞で取り上げた特集記事でも、学校への持ち込み禁止を支持する声とならんで、あいかわらず「すでに普及してしまったものをいまさらダメといっても・・・」といった優柔不断ともいえる声も少なくないという。また、登下校時の児童の安全を守るためにも必要ではないか、との声も聞く。あれやこれやで、さまざまな戸惑いがあるのだが、しかし実は問題の答えはとても簡単。無用な雑音のせいでことが複雑になっているのではないか。

要は携帯をめぐるプラスとマイナスを比べてみれば、答えは一目瞭然なのだ。理由の大半を占める「家庭との緊急連絡に必要」「部活の連絡に使っている」などの理由は、他にいくらでも代替手段はある。ましてや「よその子も持っているから」などは論外。理由にもならない。もっともそれを立派な理由とするバカな親もいるようだが、そんなアホな意見に振り回される愚は避けなければならない。携帯が学校生活に及ぼす弊害を検証すれば、持って行かないのがいいのは明らかではないか。学生時代に携帯などなかった我々の世代からすれば、信じられない光景が授業中に展開している。机の下でメール、顔を上げれば、写メールで友達をパチリ。学校や授業を何だと心得ているのか。小学校や中学でそんな風だから、社会人への入り口である大学生になっても、授業中に携帯を手放せない子供みたいな学生がめずらしくない。こんな基本的なマナーをいまさら教えなければ分からないバカな子供が増えているのだ。携帯を学校で預かったら、その間の通信費を弁償しろと学校にねじ込んだ、それこそバカな親もいるらしいから、子供の躾なんてとてもじゃないが、無理なんだろう。

携帯メールを送信する際には文章を書くわけだが、それも漢字変換を機械が勝手にやってくれるのだから、辞書を引いて確認することはまずしない。漢字能力が年々低下の一途という弊害は、まず挙げられる弊害だ。かくのごとくプラスよりも弊害が目立つ携帯を学校で禁止しようとの動きは、これから全国の学校で広がっていくと予想されるが、同時に本来なら便利な道具に過ぎない携帯が人間様の主人になって、その奴隷に成り下がっている妙な若者が増殖している情けない風潮に歯止めをかけないととんでもないことになりそうで怖い。 

ジャーナリストの視点

 ジャーナリストにはさまざまな資質が求められる。好奇心だったり、そこから派生する研究心だったり、あるいは事象の裏側を見抜く洞察力も重要だし、説得力のあるリズミカルな文章力も必要だ。そして、もうひとつ大事なのが複眼的視点ではないだろうか。今週号のTOKYO HEADLINE(11月10日号)3頁に掲載された木村太郎さんのコラム(ニュースの真髄 No.393)を読んでそう思った。コラムは、カリスマプロデューサー小室哲哉の詐欺事件を取り上げたものである。木村氏は、小室容疑者逮捕を知って、著作権は譲渡できるのか? と疑問に感じたのだという。

 記事の冒頭で木村氏は述べているが、あのかつての時代を代表する神様みたいな存在だった人物が何で詐欺なんかやらかしたのか、と驚いたのではない。それなら、我々市井の凡人と変わらない。木村氏は、詐欺のねたになった著作権を10億円で譲渡する、という点に疑問を持ったのだという。その背景には、著作権は芸術的創作を生み出した当事者が所有するもので、著作権料はその当事者に対して支払われるべきではないのか、との発想がある。彼はこの点を「カラオケや着メロを利用したりコンサートへ行っても料金に含まれる形で著作権料を支払っている。放送でもNHKなら受信料、民放ならCMを出稿する企業の製品代価に含まれる形で支払っている。いずれにせよ、感動した音楽の代価をそれをつくった人とは無関係の人物や団体に支払うことに抵抗を感じないだろうか」と書いている。

 我々にとっては、著作権料をJASRAC日本音楽著作権協会をはじめ、多くの著作権管理団体に支払うのは、すでに当たり前のことになっている。他にもPCやゲームソフトなどにも著作権が存在し、勝手に無料で使うことが出来ないことも知っている。まあ一部のアジアの他の国では、まだこの辺で後進性をぬぐえないところもあるが。それはさておき、著作権の譲渡と聞いて、疑問符をつける発想は、凡人には盲点なんだろうと思う。ちなみに木村氏は、すぐに著作権法をひもといて調べている。その結果、著作権には「著作者人格権」と「財産権」があり、後者は譲渡できるのだという。著作物により金を儲ける権利なのだ。これはアメリカでも同様に認められている。しかしドイツでは人格権と財産権は不可分で、ともに譲渡できないという。今回の事件は、ドイツなら起こらなかったことになる。

 ある事象を見て、その背景や周辺に視点を配ることで、意外な発見がある。あるいは、誰も気付かない疑問を感じる。それをすぐに調べる。新たな事実を発見する。まさに複眼的視点を備えたジャーナリストがそこにいた。だいぶ以前に、私は日本の大マスコミにはジャーナリズムは存在しない、というニュアンスのことを書いた。しかし、それは組織の体質としてのことであって、個々のマスコミ人の中にはジャーナリストを何人も見ることはできる。

事件の背景にある真実を抉れ

 朝日新聞シンガポール発の外電によれば、南極海での日本の調査捕鯨を巡って、またもや非道であるとの声が挙がり、一方我が国側はそれに反論する姿勢を見せて対立の様相を呈しているという。しかしその記事では、またもや日本の捕鯨を巡ってこんな揉め事がありました、といった感じの表層的な論調に終わっている。果たして両国のどちらの主張が正しいのか、出来事の裏側に潜む真実を抉り出そうとの視点は見られない。
 非難声明を表明したのは、オーストラリア政府。同政府のギャレット環境相は「今回日本が捕獲した鯨は親子で、なんとも悲しい。調査の名目で無差別に鯨を殺している」と指摘している。これに対して、調査捕鯨を実施している日本捕鯨類研究所では、統計学的に正確なデータを取るために異なる大きさの鯨を捕獲したのだと発表。若林農水相も昨日の閣議の後で、オーストラリア政府のコメントは冷静さを欠いている、と述べた。問題の2頭の鯨が果たして本当に親子なのか、そうでないのか。どちらの国の言い分が正しいのか。フィッシングの世界では、小さい獲物はリリースつまり水に返すのがルールとされている。それは将来的な資源の保護という実利と、小さい子供は可愛そうだから、との感情に起因するのだろう。そして今回の鯨も大きいほうの1頭だけならおそらく問題にはならなかった。捕鯨はとにかく野蛮で、鯨が可哀想との国際的な博愛主義が底流にあるのなら別だが、親子で仲良く泳いでいるところをまとめて捕獲したのがけしからん、というのなら、本当にその大小2頭の鯨が親子である科学的論拠を示すべきだ。反論する方も、単にサイズの異なる2頭がいっしょに捕獲されただけだ、とのこれも科学的なデータを示すべきだ。鯨で可能かどうかは分からないが、例えば2頭のDNAを比較するなどの方法はないのだろうか。そして取材者にそうした真実に迫ろうとする視点があれば、記事は違う方向を見せるはずだ。これまでさんざん繰り返されてきた鯨を殺さないでと唱える国際博愛主義と、鯨は伝統の正当な漁業であると主張する捕鯨国との感情的な論争の例をまた新たにあげつらっても新味はない。 

記者は質問に工夫を

 記者会見やスポーツの試合後のインタビューで、いつも感じることだが、取材記者の質問になんと工夫のないことか。先週の10日、300人もの取材陣を集めてハニカミ王子の石川遼選手がプロ転向の記者会見を行ったが、その席上でも同様だった。石川選手は、確かにアイドル的な人気でこれまで注目されてきた。アマチュア時代のアイドル的な存在であれば、それなりにかわいらしさを引き出す質問内容でも許されただろう。しかし、今回の会見はプロを目指してのスタートである。プロを目指すからには、海外進出も含めての戦略など、具体的な行動計画やトレーニング、さらには厳しくなる試合環境への覚悟などメディアとして聞きたいことはたくさんあるはず。
 ライブドアのスポーツブログに寄せた、ゴルフジャーナリスト舩越園子氏の取材観察記事によれば、「おせちは食べたか?」「プロ転向を決める家族会議は、おせちを食べながら?」などぬるい内容ばかり。これでは、ハニカミ王子08年を語る新春会見、である。「プロとしての目標は?」との質問も当然ながらあったのだが、舩越氏によれば、この質問についての石川選手の答はなんとも曖昧なもので、アメリカならすぐに鋭い突込みがあるはずだという。当の舩越氏も、夢はマスターズで優勝すること、との石川選手の答に対して、どの程度現実的・具体的に計画しているのかとの質問をぶつけている。案の定、彼の口からは明確なビジョンが語られることはなかった。
 記者からの質問のゆるさは、特にTVでは明確に判明してしまうのだが、例えばサッカーのオシム前日本代表監督が辛辣に指摘していた。いつも感じるのだが、質問すべき記者は事前にどの程度準備をしているのだろう。あるいは余りにも核心に迫るのは失礼になるからと、遠慮してしまうのだろうか。そろそろゆるい質問はやめよう。大衆が喜ぶのではなく、納得するコメントを引き出すための、的を射た大人の質問風景を見たいものである。

なぜ日本はケンカしないのか

 北京五輪に向けてのハンドボール予選における中東勢の審判疑惑により、予選が再実施されることが昨年末から報道されてきた。どちらかといえばマイナーなこの種目への関心が高まると同時に、中東イスラム諸国のなりふり構わない強引なやり方が批判の対象にもなってきた。だが、昨日不可解な報道が飛び込んできた。予選の再実施を求める国際ハンドボール連盟(IHF)の決定に対して、アジア連盟(AHF)が拒否すると回答したのである。しかも常任理事会での決定といいながら、その構成メンバーである日本には通知もせず抜き打ちでの決定だった。そのうえ新聞によれば、日本協会には6日夕方時点で、会議の決定事項も届いていないという。
 この事態に対する日本協会のコメントを読んでがっかりした。TVでも同様のコメントを発していたが、「想定した結果だ。日本はIHFの決定を受けて粛々と準備を進めるしかない」というのだ。まるで事態を予想していて、しかも泰然自若、慌てないことを自慢するかのような言い方だ。アジア連盟は国際ハンドボール連盟の下部組織であり、いわば謀反を起こしているわけだ。場合によっては除名処分さえあるかもしれない。さらに報道によれば、抗議文を提出することも検討していると言うが、抗議文程度で何か効果があると思っているのだろうか。中東、特に今回主役というより悪役を演じたクェートにとって、そんなことは織り込み済みだろう。日本協会の市原副会長は、さらに「再戦決定は公式な事項であり、IHFの指導力も問われる」と述べているが、それはIHFに任せていますから日本は何もしませんよ、ということを意味している。肝心の日本はどうなのか。どうケンカするつもりなのか。たぶんケンかなんて大それたことはしないだろう。クェートに対して強力にプレッシャーを掛けることもしない。例えば、日本に加えて韓国、中国、インドネシア、香港、シンガポール、マレーシアなど、東アジア諸国を巻き込み、東アジア連盟として中東諸国と別組織を提唱したっていい。もともとアジアといっても、日本を始めとする東アジアと中東とは価値観や倫理観がかなり違う。単に地理的なくくりでいっしょになっているだけだ。少なくとも、クェートに向けて全権大使を急遽派遣して、事態を正確に把握し、場合によってはタンカのひとつも切ってくるくらいの元気がなくてどうするというのか。さらにいえば、これはスポーツの世界の問題とはいえ、日本がなめられていることになるのだから、外交ルートを動かして何らかの手を打ってもいい。民間人が乗り込んだら暗殺されるかもしれないなど、心配ならなおさら外交手腕を発揮すべきだ。正式な外交担当者が行って、それで万が一が起こればそれこそ国際問題になる。クェートもそれほどバカではあるまい。
 今回の事態では、日本は始めから闘うことを放棄してはいないか。協会のまるでお役所みたいな反応では、選手達が可哀想だ。スポーツは、勝ち負けもさりながらフェアプレーの精神こそ最も重要である。しかし、その一方で国を背負って戦う場面では、戦争だともいわれる。この点で特に中東諸国は、徹底して勝ちにこだわる気持ちが強い。そのためには多少あこぎなことでも平気だ。例えば、昨年のサッカーアジア選手権予選リーグでの出来事。開催地での練習に臨んだ日本のグラウンドに、規定よりもずっと早い時刻にクェートチームが乗り込んできた(これもクェートだ!)。その時間帯に日本チームはセットプレーの練習をしていた。それは日本によって重要な武器である。ということは敵にとっては脅威である。そこで彼らはルールを無視して、乗り込んできた。オシム監督は厳重に抗議したが、一向に聞き入れる様子はない。そのまま練習を強行すれば、手の内を明かすことになる。やむなく予定より早く切り上げて結局セットプレーの確認はできなかった。練習を見られれば参考になるし、日本が中止すれば確認作業を妨害したことになって、クェートにすればどっちに転んでもごね得だったのだ。
 今回の事態に対して、日本ハンドボール協会は近日中に今後の対策を発表するという。どんな対策を講じるのか、するならばその背景にある意図は何か、あるいは何もしないのか、メディアはその発表の場でしっかり問い正して欲しい。