メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

勘違いの能天気さん

ラジオや新聞の人生相談あるいは読者相談欄が面白い。さまざまな悩みや迷いについての答えや指針を求めて実に多くの相談が寄せられる。勿論多くは真剣な悩みや相談事であり、それを揶揄するようなことは現に慎むべきである。たとえちょっとねえ?と感じられるような内容だったとしても、相談を受けた回答者または編集者は、真摯に相談内容に向き合っているはずだ。しかしふた月ほど前の毎日新聞の人生相談は、その秀逸で辛辣な回答ぶりに思わず見入ってしまった。回答者は作家の高橋源一郎氏。
結婚歴30数年という60代男性からの相談内容はざっとこうだ。結婚してから常に妻以外の女性と付き合ってきた。目下も40数年ぶりに再開した元同級生と交際している。独身の彼女は、家族のある自分との交際に悩み精神的に追い詰められ、連絡も途絶えてしまった。自分はどうすればいいのか?
この質問をまず読んで、??? 回答者のコメントをすぐに追ってみた。冒頭で、相談者への回答は特にありません、とある。その代り相談者の妻と交際しているという独身の彼女へのメッセージが記されていた。曰く、妻に対しては「どうして結婚初期で離婚しなかったんでしょうねえ。こんなひどい男とは一日も早く決着つけなさい。いつしかほんとに見くびられますよ。弁護士と相談して夫の身ぐるみ剥がしちゃってください。」そして独身の彼女には「とんでもない男に引っかっかちゃいましたね。勉強だったと思ってすっぱり別れなさい。もしまた何か言って来たら、こう返答しなさい。――これ以上うるさく付きまとったら、殺すぞボケ!――何なら警察に連絡してもいいですね」
人生相談や読者投稿はけっこう毎日のように目を通しているのだが、これはとびっきりの秀逸な回答。高橋源一郎という作家にいっぺんに魅了され、その余波で近所のお気に入りの書店に行って、彼の著書を探してしまった。

メディアは名前の尊厳にもっと意識をもつべきでは?

このところの特に新聞報道における個人の名前の扱い方について考えている。きっかけはミャンマー民主化の先導者であるアウンサンスーチーさんの表記である。今朝の紙面では、先に日本代表と戦ったサッカーの代表選手の中から帰国間際になっての難民申請があったと報道があり、そこで彼女の名前表記がスー・チーさんとあった。
これは間違いである。つまり、記事を書いた記者にその認識があってのことかどうかはわからないが、一般的にアウン・サン・スー・チーまたはアウンサン・スー・チーと表記されているようで、それをそのまま踏襲しているのだろう。そして名前だけ表記することである種の略称として勘弁してねとの感覚なのか。
その背景には、彼女の名前についての解釈の問題がある。アウンサンもしくはアウン・サンが苗字であり、スー・チーが名前との理解。これは明確な間違いである。彼女の父親はミャンマーの近代化に貢献したアウンサン将軍であり、その子供である彼女には父親の名前に「賢く美しい娘」との意味を持つスーチーが添えられて名付けられた。アウンサン将軍の賢く美しい娘との意味である。実はミャンマーには、洋の東西を問わず一般的な概念である苗字+名前という概念がないのだ。一つの名前だけである。彼女の父親の名前はアウンサン、彼女はその娘で美しく聡明であれとの願いを込めてスーチーを加えて名付けられた。だから彼女は、アウンサンスーチーであり、区切り点もない。苗字と名前を区切ることもない。メディアで区切り点をつけて表記するのは、単に表記をする側の勝手な都合と思い込みなのである。あるいは勉強不足。
私がそのことを知ったのは、かなり昔のこと。まだ彼女の働きで民主化が実現する前。軟禁状態にあった時代である。実は、彼女の還暦のお祝いで都内で大きな集まりがあって参加した。そこで初めて日本在住のミャンマーの人々や日本側の支援者たちと交流することがあった。その時にミャンマーについて何にも知らない日本人の一人として、名前について知ることになった。その時に説明してくれた日本人の支援者によると、ミャンマー人の名前について、きちんと理解している日本人はごく一部だという。アウンサンスーチーさんという世界手著名人がいるので、その名前がしばしばメディアなどで登場することで正確な名前についての表記が知られることもあるが、彼女がいなかったら知られる機会はもっと少なかったろう。
もう一つ気になる名前表記がある。日本のプロ野球を巣立って米大リーグで活躍しているダルビッシュ有投手だ。彼のことを時々新聞などで「ダル」と縮めて表記することがある。
ダルビッシュと単にダルと表記するのと、紙面構成上でいかほどの違いがあるのだろうか? しかも「ダル」とは一般にかったるいとかだらけたさま、退屈などあまりいい意味ではない。ご本人もその点はちゃんと認識して、そのうえでマスコミへの寛大な対応をしてくれているのだと思う。ならば、メディアの側がもっと名前に対する敬意をきちんと身に着けてほしいと思う。

ただいま お帰り!

ひょんなことからブログを再開することにした。思えば最後に記事をアップしてから、もう10年以上経ってしまっていた。時間の経つのは早い。再開っていうけど、実は単にサボっていただけ。

にしてもである、10年ひと昔だからすでに一つの区切りを超えて、二区切り目に入ってしまっている。俺ってこんなに飽きっぽかったかなあ? まあそうなんだろうね。ここは潔く自らのダメさを認めよう。

さて、この10年、自分にとってどんな時間が過ぎたのだろうか。何があったのか、何が変わったのか、あるいは変わらなかった。簡単に整理するとまず住まいが変わった。数十年を過ごした神奈川区から5年ほど前に旭区に転居した。考えてみると物心ついてから神奈川区から出たことがない。区外での生活は初めて。これってかなり大きな変化だろうなあ。次男坊が独立してもう二人の子持ちである。おいらはお爺ちゃんてこと。だけどこの現実がいまだに自分の中でしっくり来ていない。そうだよね、だっておいらのキャッチフレーズは「young at heart forever」だから。これって人によっては、いい年していつまで馬鹿なこと言ってんの、って意味らしいけど・・

芝居は相変わらずうまくならないけどそれでも一向にやめる気配はない。もう40年を超えた。仕事は、目下は多足の草鞋状態。住まい近くの有料老人ホームで、介護サービスの下支えをする何でも屋のパート。そして1年半ほど前からは、あるNPO横浜市健康福祉局とのコラボ事業に参画している。拠点は中区の寿町である。合間を縫って、半導体関連の専門新聞のウェブ展開事業で映像制作を手伝い、その一方でナレーションなど音声コンテンツ制作を請け負っている。確かに忙しいし、昔に比べると疲れがたまるねえ。だけど、いや、だからかな合間を縫って自転車で走り回り回り、気分転換と体力維持を心がける。だけど体重はなぜかすこーしずつ増えている。目下の目標は、4キロダイエット。60kg切りを目指す。これがなかなか難しいです、はいっ。だって旨いものが身の回りに多すぎる。まあ、取り留めない復活宣言であるが、実は今そばで妻が「出かけるよ~」と呼び掛けているのでいったん中断。この続きはまた近くということで。

地上波サッカー番組に物申す!

かねてより、サッカー番組に疑問があった。それを裏付けるような記事を、今日26日付のラテ面のコラムに発見した。全く同感! と拍手したくなるような内容だった。有名選手のトークショーやインタビューはまだ許せる。選手の意外な本音や一面が垣間見えて、それはそれでありだろう。しかしつまらないゲーム合戦やお遊び企画は、見たくもない、のが本音である。結果としてファンがもっとも見たいはずのJをはじめとするゲーム速報や解説の時間が削られる。特に解説は、得点シーンでの選手の動きやディフェンスの対応ぶりなどを、実戦映像を交えて分かりやすく見せてくれるととても面白い。海外のゲーム情報と並んで、これこそがサツカーファンのもっとも望むものだ。

つまらないバラエティ番組化することで、サッカー番組からこうしたファンなら当然望んでいるはずの時間が削られることには我慢ならない。ところが番組制作側の言い分は、そうした専門的な内容は、一部のこだわりファンだけが望んでいるのであって、一般視聴者は、楽しい内容を見たがる。そうした専門的なプログラムを見たいなら、CSがあるだろう、との言い分だ。

ふざけるなと言いたい。TVは分かっていない。まずCSを見られる視聴者が何人いるか知った上で言っているのか。なにより、サッカーファンがもっとも見たいのは、サッカーゲームそのものである。バラエティではない。この点は、件のコラム氏も同じ指摘をしている。この例に限らずTV番組の在り方は、一見すると分かったようなことを言いながら、実は視聴者の意向を全く理解していない。分かっているとすれば、無視しているのか。傲慢ともいえるその体質は、いつかとんでもないしっぺ返しを食らうことになるだろう。

好奇心は楽しみへの加速剤

何気なく思い込んでいたことが実は違っていて、ふっとした弾みに真実に気付いたとき、「え〜うっそー」って感じで、はしゃいだり、やけに興奮状態に陥ったりすることがある。面白いと思う。そしてそうした再発見が、かなり多いこともまた興味深い。

ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの定番である「モアイ像」を知っている人は多いだろう。そしてそのほとんどが、あれはかのイースター島のモアイ像のレプリカだと思っているはずだ。とこう書いてくると、「あれっ?! もしかして渋谷のモアイは違うのかな。あるいは、あれってモアイじゃない?」なんて思いをめぐらせている人もいるのではないか。
ずばり正解。渋谷のそれはモアイではない。モヤイなのである。
「ええ〜、それってぇ〜、ちょっと言い回しが違うだけでしょう」なんてほっぺたを膨らませないでほしい。あくまで「モヤイ」なんである。しかも出身は日本。伊豆七島のひとつ、新島なんである。れっきとした国産。

先日、友人と待ち合わせて少し早めに着いたので、モヤイの周辺をぶらっとした折に、ふと小さな看板に気がついた。そこに「モヤイについて」との説明書きがあった。新島には古くから地域の人々が力を合わせ、その絆によって大きな仕事を達成する素晴らしい習慣があるという。それが「もやい」である。像はこの精神のシンボルとして、そこに人々が集い絆を育むきっかけになればとの願いをこめて設置した、というよう内容の説明だった。だから「モヤイ像」が正解なのである。う〜ん、これって面白い かな?

「主客転倒」を起こしている携帯電話

橋下大阪府知事が表明した「ケータイ禁止令」が、波紋を投げかけている。そしてこの問題は、単に学校に携帯電話を持ち込むことの是非だけでなく、学校や家庭で子供をどう育て、何を教えるべきかなど、さまざまな問題を浮き彫りにしてくれた。

メディアや一般の方向性としては、携帯は学校へ持たせるべきではない、橋下知事の方針には賛成、との論調が大勢を占めている。しかし、保護者などの声は必ずしも賛成で足並みが揃っているわけではなさそう。12月始めの読売新聞で取り上げた特集記事でも、学校への持ち込み禁止を支持する声とならんで、あいかわらず「すでに普及してしまったものをいまさらダメといっても・・・」といった優柔不断ともいえる声も少なくないという。また、登下校時の児童の安全を守るためにも必要ではないか、との声も聞く。あれやこれやで、さまざまな戸惑いがあるのだが、しかし実は問題の答えはとても簡単。無用な雑音のせいでことが複雑になっているのではないか。

要は携帯をめぐるプラスとマイナスを比べてみれば、答えは一目瞭然なのだ。理由の大半を占める「家庭との緊急連絡に必要」「部活の連絡に使っている」などの理由は、他にいくらでも代替手段はある。ましてや「よその子も持っているから」などは論外。理由にもならない。もっともそれを立派な理由とするバカな親もいるようだが、そんなアホな意見に振り回される愚は避けなければならない。携帯が学校生活に及ぼす弊害を検証すれば、持って行かないのがいいのは明らかではないか。学生時代に携帯などなかった我々の世代からすれば、信じられない光景が授業中に展開している。机の下でメール、顔を上げれば、写メールで友達をパチリ。学校や授業を何だと心得ているのか。小学校や中学でそんな風だから、社会人への入り口である大学生になっても、授業中に携帯を手放せない子供みたいな学生がめずらしくない。こんな基本的なマナーをいまさら教えなければ分からないバカな子供が増えているのだ。携帯を学校で預かったら、その間の通信費を弁償しろと学校にねじ込んだ、それこそバカな親もいるらしいから、子供の躾なんてとてもじゃないが、無理なんだろう。

携帯メールを送信する際には文章を書くわけだが、それも漢字変換を機械が勝手にやってくれるのだから、辞書を引いて確認することはまずしない。漢字能力が年々低下の一途という弊害は、まず挙げられる弊害だ。かくのごとくプラスよりも弊害が目立つ携帯を学校で禁止しようとの動きは、これから全国の学校で広がっていくと予想されるが、同時に本来なら便利な道具に過ぎない携帯が人間様の主人になって、その奴隷に成り下がっている妙な若者が増殖している情けない風潮に歯止めをかけないととんでもないことになりそうで怖い。 

ジャーナリストの視点

 ジャーナリストにはさまざまな資質が求められる。好奇心だったり、そこから派生する研究心だったり、あるいは事象の裏側を見抜く洞察力も重要だし、説得力のあるリズミカルな文章力も必要だ。そして、もうひとつ大事なのが複眼的視点ではないだろうか。今週号のTOKYO HEADLINE(11月10日号)3頁に掲載された木村太郎さんのコラム(ニュースの真髄 No.393)を読んでそう思った。コラムは、カリスマプロデューサー小室哲哉の詐欺事件を取り上げたものである。木村氏は、小室容疑者逮捕を知って、著作権は譲渡できるのか? と疑問に感じたのだという。

 記事の冒頭で木村氏は述べているが、あのかつての時代を代表する神様みたいな存在だった人物が何で詐欺なんかやらかしたのか、と驚いたのではない。それなら、我々市井の凡人と変わらない。木村氏は、詐欺のねたになった著作権を10億円で譲渡する、という点に疑問を持ったのだという。その背景には、著作権は芸術的創作を生み出した当事者が所有するもので、著作権料はその当事者に対して支払われるべきではないのか、との発想がある。彼はこの点を「カラオケや着メロを利用したりコンサートへ行っても料金に含まれる形で著作権料を支払っている。放送でもNHKなら受信料、民放ならCMを出稿する企業の製品代価に含まれる形で支払っている。いずれにせよ、感動した音楽の代価をそれをつくった人とは無関係の人物や団体に支払うことに抵抗を感じないだろうか」と書いている。

 我々にとっては、著作権料をJASRAC日本音楽著作権協会をはじめ、多くの著作権管理団体に支払うのは、すでに当たり前のことになっている。他にもPCやゲームソフトなどにも著作権が存在し、勝手に無料で使うことが出来ないことも知っている。まあ一部のアジアの他の国では、まだこの辺で後進性をぬぐえないところもあるが。それはさておき、著作権の譲渡と聞いて、疑問符をつける発想は、凡人には盲点なんだろうと思う。ちなみに木村氏は、すぐに著作権法をひもといて調べている。その結果、著作権には「著作者人格権」と「財産権」があり、後者は譲渡できるのだという。著作物により金を儲ける権利なのだ。これはアメリカでも同様に認められている。しかしドイツでは人格権と財産権は不可分で、ともに譲渡できないという。今回の事件は、ドイツなら起こらなかったことになる。

 ある事象を見て、その背景や周辺に視点を配ることで、意外な発見がある。あるいは、誰も気付かない疑問を感じる。それをすぐに調べる。新たな事実を発見する。まさに複眼的視点を備えたジャーナリストがそこにいた。だいぶ以前に、私は日本の大マスコミにはジャーナリズムは存在しない、というニュアンスのことを書いた。しかし、それは組織の体質としてのことであって、個々のマスコミ人の中にはジャーナリストを何人も見ることはできる。