メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

事件の背景にある真実を抉れ

 朝日新聞シンガポール発の外電によれば、南極海での日本の調査捕鯨を巡って、またもや非道であるとの声が挙がり、一方我が国側はそれに反論する姿勢を見せて対立の様相を呈しているという。しかしその記事では、またもや日本の捕鯨を巡ってこんな揉め事がありました、といった感じの表層的な論調に終わっている。果たして両国のどちらの主張が正しいのか、出来事の裏側に潜む真実を抉り出そうとの視点は見られない。
 非難声明を表明したのは、オーストラリア政府。同政府のギャレット環境相は「今回日本が捕獲した鯨は親子で、なんとも悲しい。調査の名目で無差別に鯨を殺している」と指摘している。これに対して、調査捕鯨を実施している日本捕鯨類研究所では、統計学的に正確なデータを取るために異なる大きさの鯨を捕獲したのだと発表。若林農水相も昨日の閣議の後で、オーストラリア政府のコメントは冷静さを欠いている、と述べた。問題の2頭の鯨が果たして本当に親子なのか、そうでないのか。どちらの国の言い分が正しいのか。フィッシングの世界では、小さい獲物はリリースつまり水に返すのがルールとされている。それは将来的な資源の保護という実利と、小さい子供は可愛そうだから、との感情に起因するのだろう。そして今回の鯨も大きいほうの1頭だけならおそらく問題にはならなかった。捕鯨はとにかく野蛮で、鯨が可哀想との国際的な博愛主義が底流にあるのなら別だが、親子で仲良く泳いでいるところをまとめて捕獲したのがけしからん、というのなら、本当にその大小2頭の鯨が親子である科学的論拠を示すべきだ。反論する方も、単にサイズの異なる2頭がいっしょに捕獲されただけだ、とのこれも科学的なデータを示すべきだ。鯨で可能かどうかは分からないが、例えば2頭のDNAを比較するなどの方法はないのだろうか。そして取材者にそうした真実に迫ろうとする視点があれば、記事は違う方向を見せるはずだ。これまでさんざん繰り返されてきた鯨を殺さないでと唱える国際博愛主義と、鯨は伝統の正当な漁業であると主張する捕鯨国との感情的な論争の例をまた新たにあげつらっても新味はない。 

記者は質問に工夫を

 記者会見やスポーツの試合後のインタビューで、いつも感じることだが、取材記者の質問になんと工夫のないことか。先週の10日、300人もの取材陣を集めてハニカミ王子の石川遼選手がプロ転向の記者会見を行ったが、その席上でも同様だった。石川選手は、確かにアイドル的な人気でこれまで注目されてきた。アマチュア時代のアイドル的な存在であれば、それなりにかわいらしさを引き出す質問内容でも許されただろう。しかし、今回の会見はプロを目指してのスタートである。プロを目指すからには、海外進出も含めての戦略など、具体的な行動計画やトレーニング、さらには厳しくなる試合環境への覚悟などメディアとして聞きたいことはたくさんあるはず。
 ライブドアのスポーツブログに寄せた、ゴルフジャーナリスト舩越園子氏の取材観察記事によれば、「おせちは食べたか?」「プロ転向を決める家族会議は、おせちを食べながら?」などぬるい内容ばかり。これでは、ハニカミ王子08年を語る新春会見、である。「プロとしての目標は?」との質問も当然ながらあったのだが、舩越氏によれば、この質問についての石川選手の答はなんとも曖昧なもので、アメリカならすぐに鋭い突込みがあるはずだという。当の舩越氏も、夢はマスターズで優勝すること、との石川選手の答に対して、どの程度現実的・具体的に計画しているのかとの質問をぶつけている。案の定、彼の口からは明確なビジョンが語られることはなかった。
 記者からの質問のゆるさは、特にTVでは明確に判明してしまうのだが、例えばサッカーのオシム前日本代表監督が辛辣に指摘していた。いつも感じるのだが、質問すべき記者は事前にどの程度準備をしているのだろう。あるいは余りにも核心に迫るのは失礼になるからと、遠慮してしまうのだろうか。そろそろゆるい質問はやめよう。大衆が喜ぶのではなく、納得するコメントを引き出すための、的を射た大人の質問風景を見たいものである。

なぜ日本はケンカしないのか

 北京五輪に向けてのハンドボール予選における中東勢の審判疑惑により、予選が再実施されることが昨年末から報道されてきた。どちらかといえばマイナーなこの種目への関心が高まると同時に、中東イスラム諸国のなりふり構わない強引なやり方が批判の対象にもなってきた。だが、昨日不可解な報道が飛び込んできた。予選の再実施を求める国際ハンドボール連盟(IHF)の決定に対して、アジア連盟(AHF)が拒否すると回答したのである。しかも常任理事会での決定といいながら、その構成メンバーである日本には通知もせず抜き打ちでの決定だった。そのうえ新聞によれば、日本協会には6日夕方時点で、会議の決定事項も届いていないという。
 この事態に対する日本協会のコメントを読んでがっかりした。TVでも同様のコメントを発していたが、「想定した結果だ。日本はIHFの決定を受けて粛々と準備を進めるしかない」というのだ。まるで事態を予想していて、しかも泰然自若、慌てないことを自慢するかのような言い方だ。アジア連盟は国際ハンドボール連盟の下部組織であり、いわば謀反を起こしているわけだ。場合によっては除名処分さえあるかもしれない。さらに報道によれば、抗議文を提出することも検討していると言うが、抗議文程度で何か効果があると思っているのだろうか。中東、特に今回主役というより悪役を演じたクェートにとって、そんなことは織り込み済みだろう。日本協会の市原副会長は、さらに「再戦決定は公式な事項であり、IHFの指導力も問われる」と述べているが、それはIHFに任せていますから日本は何もしませんよ、ということを意味している。肝心の日本はどうなのか。どうケンカするつもりなのか。たぶんケンかなんて大それたことはしないだろう。クェートに対して強力にプレッシャーを掛けることもしない。例えば、日本に加えて韓国、中国、インドネシア、香港、シンガポール、マレーシアなど、東アジア諸国を巻き込み、東アジア連盟として中東諸国と別組織を提唱したっていい。もともとアジアといっても、日本を始めとする東アジアと中東とは価値観や倫理観がかなり違う。単に地理的なくくりでいっしょになっているだけだ。少なくとも、クェートに向けて全権大使を急遽派遣して、事態を正確に把握し、場合によってはタンカのひとつも切ってくるくらいの元気がなくてどうするというのか。さらにいえば、これはスポーツの世界の問題とはいえ、日本がなめられていることになるのだから、外交ルートを動かして何らかの手を打ってもいい。民間人が乗り込んだら暗殺されるかもしれないなど、心配ならなおさら外交手腕を発揮すべきだ。正式な外交担当者が行って、それで万が一が起こればそれこそ国際問題になる。クェートもそれほどバカではあるまい。
 今回の事態では、日本は始めから闘うことを放棄してはいないか。協会のまるでお役所みたいな反応では、選手達が可哀想だ。スポーツは、勝ち負けもさりながらフェアプレーの精神こそ最も重要である。しかし、その一方で国を背負って戦う場面では、戦争だともいわれる。この点で特に中東諸国は、徹底して勝ちにこだわる気持ちが強い。そのためには多少あこぎなことでも平気だ。例えば、昨年のサッカーアジア選手権予選リーグでの出来事。開催地での練習に臨んだ日本のグラウンドに、規定よりもずっと早い時刻にクェートチームが乗り込んできた(これもクェートだ!)。その時間帯に日本チームはセットプレーの練習をしていた。それは日本によって重要な武器である。ということは敵にとっては脅威である。そこで彼らはルールを無視して、乗り込んできた。オシム監督は厳重に抗議したが、一向に聞き入れる様子はない。そのまま練習を強行すれば、手の内を明かすことになる。やむなく予定より早く切り上げて結局セットプレーの確認はできなかった。練習を見られれば参考になるし、日本が中止すれば確認作業を妨害したことになって、クェートにすればどっちに転んでもごね得だったのだ。
 今回の事態に対して、日本ハンドボール協会は近日中に今後の対策を発表するという。どんな対策を講じるのか、するならばその背景にある意図は何か、あるいは何もしないのか、メディアはその発表の場でしっかり問い正して欲しい。

ネットは残されたジャーナリズムになり得るか

 先週の政局は、民主党の小沢党首の辞任記者会見から一転して、続投の訂正会見とめまぐるしい展開を見せた。この件をきっかけに、改めて日本のマスメディアのわけても新聞とその系列であるTVが、言葉のかけらを拾って、そこから真実に迫ろうとするジャーナリズムとしての本質を持っているのかと訝しく感じられてならなかった。特に身内の出来事には必要以上に消極的になってしまうことで、やはり記者といえども宮仕えかと思わざるを得なかった。
 小沢氏辞任のきっかけとなった、彼が自民福田内閣に「大連立」を持ちかけたとの報道。これに対して小沢氏は事実無根だと反論している。一方の福田氏は、例によって霧に包まれたようなソフトフォーカスの発言であった。両氏に共通しているのは、ある人物からの働きかけがあったとするコメントだ。正直なところ、筆者はすべての新聞とTVを検証したわけではない。しかし、この両氏の発言を耳にして、「ある人物」とは誰だろう、メディアが追求するだろう、と考えるのは別にジャーナリストでなくとも普通の感覚だ。実はその人物は、讀賣新聞の社主、ナベツネさんつまり渡辺恒雄氏であった。朝日、毎日をはじめ他の新聞各紙や雑誌に対して、讀賣では皆無。1文字も触れていない。TVはどうか。日本TV系列は当然としても、他局もあまり積極的な印象はない。新聞報道でも、単にそうした事実があったようだとの論調で、批判的な側面は見えなかった。
 メディアは常に政治に対して批判的であるべきは当然。特に新聞の使命は、「社会の木鐸であれ」ということだ。身内の最高責任者が政局に介入する行為に対して、あくまでレベルの問題こそあれ一定以上の批判的姿勢を貫くべきだろう。それとも、それはあまりにも理想論に過ぎるのだろうか。やや遅れて雑誌メディアが、件の主がなべつね氏であることを報じていた。しかし、雑誌とて正義を論ずるだけではない。先の調書漏洩事件で担当の精神分析医が逮捕された事件では、出版元の講談社がそそくさと件の著書を書店から下げてしまった。自らが招いた社会的波紋に対して闘うことをせず尻尾を巻いてしまったのだ。
 市民新聞を名乗るJanJanというネットジャーナリズムをこのところ面白く読んでいるのだが、その中で興味深い記事があった。平山通との署名で、おそらく市民記者なのだろうが、彼は讀賣が好きでずっと購読していたのだという。しかし今回の真相を知るに及んで、勧誘に来た拡張員に対して購読中止を告げた。拡張員あっけに取られていたようだが、あきらめて引き返したという。このエピソードを交えて、この市民記者はメディアの最高責任者が政局を自ら動かそうとすることへの批判を述べ、ジャーナリストとしていかにあるべきかを示したのだ。ナベツネさんは、単に新聞社を代表する人物というだけでなく、日本の報道、政財界、さらにはスポーツの世界にも影響力を持っているというか発揮したがる人物である。それにしてもだ。そうした人物が牛耳っている讀賣はいかに世界最大の発行部数を誇ってギネスに記録されても、真のジャーナリズムといえるのか。ジャーナリズムは数ではなく、質で問われるべきことは言うまでもない。ネットジャーナリズムは、情報の正確性などの面で、まだ正式なジャーナリズムとして認知されていない面もある。しかし今回の件を考えると、もしかしたらインディペンデンスとして独自の視点と論調を持てれば、ネットが最後のジャーナリズムになる可能性を秘めているのかもしれない。

児童相談所は本気で子供をDVから守って欲しい

 子供虐待のニュースが後を絶たない。子供を守る最前線にいるはずの児童相談所が、なぜか及び腰で、虐待の事実を掴んでいながら悲劇を未然に防げないのがとても残念だ。6日付の朝日新聞家庭面の記事によれば、今年1月、岡山県倉敷市で4歳の子供の喉に七味唐辛子を詰め込んで窒息死させた母親が逮捕された。事件の前から、虐待を受けている子供の姿が何度も目撃されていた。倉敷児童相談所でも事実を把握しており、事件の3年前には病院からの通報を受けて、亡くなった児童とその兄を一時保護したこともあるという。さらにこの4歳の子供が亡くなる8日前には、母親がこの児童の首を絞めたと話していたとの幼稚園からの通報で、翌日家庭訪問している。母子が不在だったので、さらに翌日母親に面談した。しかし、子供の様子は見ずに母親の言葉だけから、直ちに保護しなければならない状況ではない、と判断して結局そのままとなり、子供が亡くなった。
 児童相談所を管轄する岡山子育て支援課長は、親との関係がこじれると子供の家庭復帰が難しくなるので、対応が消極的になってしまった、と語ったそうだが、ここに児童相談所の限界が見える。記事では、さらに千葉県松戸市で今年発生した児童虐待死の例を紹介していた。これも児童相談所が昨年末に児童を一時保護していながら、家庭に戻した後に事件となった。亡くなる5日前に家庭訪問していたのだという。このふたつの例は、いずれも県が有識者に委託して検証作業を行った。その結果、松戸市の例は検証中だが倉敷の場合は、担当者が児童の安全確認を怠り、保護を十分に検討しなかったなど児童相談所の対応不足が指摘されたというのだ。しかし、事態を整理してみれば、何も有識者に検証を依頼せずとも何が原因かはすでに明らかだ。こんな疑問が沸いていくる。

・倉敷の場合は、兄弟揃って虐待を受けていた。3年前には、亡くなった児童の兄
 は一時保護されたが、今回亡くなった弟は「傷の状況が兄ほどではないので」一
 時家庭に戻している。
 傷が大きくなければ、保護されないのか? 年端もいかない子供は、傷が大きけ
 れば死ぬ危険があることを児童相談所は認識していないのだろうか。
・子供を虐待する親が聞き取りに対して正直に答えると思っているのだろうか。
 真実は子供をつぶさに観察することでしか得られない。しかも当の被害者である
 子供は、状況によっては真実を語れないこともある。
 真実を掬い取る見識眼が必要。
・親との関係がこじれないようにすることと、子供の安全を守ることと、どちら
 が優先すべきことなのかを児童相談所はわかっているのか。
 実は親との関係で児童相談書が心配しているのは、対子供ではなく、対役所なの
 ではないか。
 事態を穏便に済まそうとしていないか。言い換えれば傷害事件あるいは致死事件
 の被疑者に向かい合っているのだと認識があるのだろうか。この点では、警察の
 ある程度の介入も視野に入れるべきだと思うが、関係省庁の見解はどうなのか。
厚生労働省によれば、05年の児童の死亡例56人の内、2割は生前に児童相談
 所が関与していたという。この詳細な内容をすべて明らかにすべきである。11
 人は死なずにすんだかもしれないのだ。

 これらの追及取材をどのメディアが取り上げるのだろうか。

弁護士が守るのは真実ではないのか?

 山口県光市の母子殺害事件における、異常な20人以上もの弁護団の異常な論旨展開など、このところ弁護士が法廷で果たすべき役割は何だろう、と考えさせることが多い。法律の番人、弱者・正義の味方とのイメージがどうも持てないのだ。昨年8月、酒酔い運転で前の車に追突し、乗っていた子供3人の命を奪った挙句、逃走した福岡市の元職員の論告求刑が行われた。検察側の求刑は、危険運転致死傷とひき逃げの道路交通法違反により、最高刑の25年であったが、弁護側は運転へのアルコールの影響を否定して業務上過失致死傷の適用を主張した。これだと最高でも懲役7年6月である。事故当時の被告の血中アルコール濃度は、1ml中1.0〜0.9mgとみられており、これは検察が行った実験では「酩酊状態」で、とてもクルマの運転ができる状態ではなかったとされている。当時の報道などからも、被告が酒を飲んでいて、それもかなりの量でふらふらだったのは明らかである。なのに、弁護士は「被告のアルコール摂取は運転には影響なかった」というのだ。何をもってこうした論理を展開するのだろうか。
 冤罪事件ではもちろん、通常犯罪でも正確な法の適用を目指し、過剰な取調べや自白強要など不正義がなされないようにするのが弁護士の仕事である。そこに求められるのは、法の下の平等であり、真実だけを論ずる法律家としての矜持である。しかしどうもそれだけではないらしい。強引でも事実を捻じ曲げて、刑を軽くすることが弁護士の仕事らしい。もちろん弁護士がすべてそうだというのではないが、この裁判にせよ山口県の例にせよおよそ一般的な感覚での正義とは程遠い弁護活動に疑問を感じてならない。 

相変わらずなくならないバカな親達

 新聞の投書欄は、世相を垣間見るよすがになって面白いと以前に書いたことがあるが、6日付の讀賣新聞からひとつ拾ってみた。交通機関や公共の場所での子供の振る舞いに眉をひそめることがあるが、多くの場合いっしょにいる親がきちんと注意していない。そこで周囲にいる他の大人が注意することになる。するとこれも多くの場合、親は恥ずかしそうにすることもなく、「ホラ怒られた」と子供を叱るか、子供を叱って指導してくれた他の大人に文句を言うかどちらかである。
 そんな風景を想像させる高校生からの投書だった。投書者がファーストフード店を訪れた時のこと。例によって子供は店内を走り回って騒ぎ、そのうち買い物客の一人にぶつかった。件の高校生は、当然その子供の親が謝罪して子供に注意するものと思ったが、そうではなかった。その親は自分の子供がぶつかった相手に向かって「危ないじゃないか!」と怒鳴ったのだという。その店では、こんな風景もあったらしい。ふざけ過ぎをみかねて店員が子供に注意すると、その親が自分が注意するから口出しするな、と抗議したという。高校生はその光景を見て、なんと情けない親であるかと感じ、非常識がそのまままかり通る今の世情を嘆いていた。しかし、こんなしっかりした若者がいるのだから今後の世代に期待してもいいかもしれない。そして、バカな親を対象にした「親学」が本当に必要になっているようだ。これはこのところ学校で問題になっているモンスターペアレントをなくすためにも必要だろう。