メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

ネットは残されたジャーナリズムになり得るか

 先週の政局は、民主党の小沢党首の辞任記者会見から一転して、続投の訂正会見とめまぐるしい展開を見せた。この件をきっかけに、改めて日本のマスメディアのわけても新聞とその系列であるTVが、言葉のかけらを拾って、そこから真実に迫ろうとするジャーナリズムとしての本質を持っているのかと訝しく感じられてならなかった。特に身内の出来事には必要以上に消極的になってしまうことで、やはり記者といえども宮仕えかと思わざるを得なかった。
 小沢氏辞任のきっかけとなった、彼が自民福田内閣に「大連立」を持ちかけたとの報道。これに対して小沢氏は事実無根だと反論している。一方の福田氏は、例によって霧に包まれたようなソフトフォーカスの発言であった。両氏に共通しているのは、ある人物からの働きかけがあったとするコメントだ。正直なところ、筆者はすべての新聞とTVを検証したわけではない。しかし、この両氏の発言を耳にして、「ある人物」とは誰だろう、メディアが追求するだろう、と考えるのは別にジャーナリストでなくとも普通の感覚だ。実はその人物は、讀賣新聞の社主、ナベツネさんつまり渡辺恒雄氏であった。朝日、毎日をはじめ他の新聞各紙や雑誌に対して、讀賣では皆無。1文字も触れていない。TVはどうか。日本TV系列は当然としても、他局もあまり積極的な印象はない。新聞報道でも、単にそうした事実があったようだとの論調で、批判的な側面は見えなかった。
 メディアは常に政治に対して批判的であるべきは当然。特に新聞の使命は、「社会の木鐸であれ」ということだ。身内の最高責任者が政局に介入する行為に対して、あくまでレベルの問題こそあれ一定以上の批判的姿勢を貫くべきだろう。それとも、それはあまりにも理想論に過ぎるのだろうか。やや遅れて雑誌メディアが、件の主がなべつね氏であることを報じていた。しかし、雑誌とて正義を論ずるだけではない。先の調書漏洩事件で担当の精神分析医が逮捕された事件では、出版元の講談社がそそくさと件の著書を書店から下げてしまった。自らが招いた社会的波紋に対して闘うことをせず尻尾を巻いてしまったのだ。
 市民新聞を名乗るJanJanというネットジャーナリズムをこのところ面白く読んでいるのだが、その中で興味深い記事があった。平山通との署名で、おそらく市民記者なのだろうが、彼は讀賣が好きでずっと購読していたのだという。しかし今回の真相を知るに及んで、勧誘に来た拡張員に対して購読中止を告げた。拡張員あっけに取られていたようだが、あきらめて引き返したという。このエピソードを交えて、この市民記者はメディアの最高責任者が政局を自ら動かそうとすることへの批判を述べ、ジャーナリストとしていかにあるべきかを示したのだ。ナベツネさんは、単に新聞社を代表する人物というだけでなく、日本の報道、政財界、さらにはスポーツの世界にも影響力を持っているというか発揮したがる人物である。それにしてもだ。そうした人物が牛耳っている讀賣はいかに世界最大の発行部数を誇ってギネスに記録されても、真のジャーナリズムといえるのか。ジャーナリズムは数ではなく、質で問われるべきことは言うまでもない。ネットジャーナリズムは、情報の正確性などの面で、まだ正式なジャーナリズムとして認知されていない面もある。しかし今回の件を考えると、もしかしたらインディペンデンスとして独自の視点と論調を持てれば、ネットが最後のジャーナリズムになる可能性を秘めているのかもしれない。