メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

法務大臣のセンスに問題あり

 例によって閣僚の問題発言だ。今回は鳩山法務大臣。先ごろの「死刑を自動化できたらいいな」発言に続いて、「友達の友達がアルカイダ」発言で物議をかもしている。しかも発言の場所が外国特派員協会だったから、あっと言う間にニュースが世界中を駆け巡ってしまった。あわてて、翌日には釈明会見を開いたのだが、ご当人の弁によれば一連の特派員協会での発言の中で修正すべき点があるとすれば、「バリ島での爆弾テロ事件以前に聞いていた」という点で、これは事後に聞いたのを曖昧に発言してしまったので訂正する。他にはなんら間違ったことを自分はしていない、とかなり憮然とした表情で語った。つまりご当人は、法務大臣人という要職にある身として特に問題はないだろう、と思っているらしい。
 彼が言いたかったのは、日本在住あるいは入国する外国人に指紋押捺を求める背景として、いまやテロの危険に世界中の国が晒されており、日本も例外ではない。その対策の一環として指紋押捺を行うことにご理解とご協力をお願いしたい、ということ。そしてテロが意外に身近にもあることの一例として、取り上げたのが、趣味の蝶研究の友人との談話なのだ。ここまでは確かに問題はない。おそらくその友人氏はこんな感じで語ったのだろう。「テロの可能性って意外に身近にもあるんだと思ったよ。僕の知り合いに、どうもアルカイダと通じている人間がいるみたいなんだ。彼は複数のパスポートを使い分けて、髭の写真もいろんなスタイルがあるんで、わかりにくいみたい。それで日本にも何回か出入りしていたようだね。この間のバリ島での爆弾テロの時にも、事前に僕にバリ島には行かない方がいいよ、と教えてくれてね。」これが、鳩山氏の言葉になったときには、単純に僕の友人の友人がアルカイダであり、バリ島の爆弾テロについて事前に教えてくれた、となってしまったのだ。誤解を招くのは、当たり前。
 法務大臣は、首相を除いては一国の法体系や治安維持の最高責任者である。外務大臣防衛大臣と並んで、その発言には常に過敏なくらいに注意をしてもしすぎることはない。ひとつのたとえ話として取り上げたに過ぎない発言を、なぜにこうまで重箱の隅をつつくがごとく責められなければならないんだ! もし、そんな風に今回の出来事を受け止めているのだとしたら、鳩山大臣のセンスは、大いに問題あり。はっきり言って馬鹿者である。そんなおバカに日本の法体系を任せておいていいのだろうか。
 この出来事の背景にはさらにふたつの問題がある。ひとつは、件の友人からそうした情報を得て、鳩山氏は公安機関に対して、その友人情報を追跡調査すべく指示を出したのだろうか。もうひとつは、この発言のもとになった外国人指紋押捺問題である。2000年4月に廃止された指紋押捺が復活されようとしている。そのことに対する、海外メディアの反応や国内での反響など、一人のバカなおじさんの発言よりも追いかけるべきテーマがあるのに、この点に触れているメディアは見かけないのだ。

ネット上の危険から子供を守るには

 出会い系サイトに加えて、最近ではブログやモバゲーサイトなどをきっかけに子供が犯罪に巻き込まれる例が急増している。28日付の朝日新聞横浜版によれば、出会い系サイトをきっかけとする事件の検挙件数は02年の98件に対して、06年は248件と2.5倍になった。こうした報道では、常に子供が被害者との視点があるが、果たしてそれは現実をきちんと捉えているのだろうか。もちろん子供に対して、金で性を提供させようとするスケベな大人が罰せられなければならないことは当然である。虐待や強制的な暴行事件などでは、子供が純粋に被害者として保護されるべきだ。しかし、これらの事件のほとんどは、性を提供する側の女の子達にとっては、実は売春という犯罪の当事者であることをはっきりと知らせることも必要で、この点がやや曖昧になっているのではないだろうか。それを被害者として守るという意識だけでは、中高生による性の犯罪はなくならない。「援助交際」などの曖昧な表現に逃げている限りは、現状は打破できない。はっきりと売春という犯罪行為だと教えなければ。
 同じく朝日の紙面では、中高生の女の子が出会い系などネット上の犯罪に巻き込まれるケースに対応して、神奈川県警では11月からパンフレットなどを配布して注意を喚起すると報じている。出会い系サイトがきっかけで発生する犯罪には、児童買春・児童ポルノ法違反、県青少年保護育成条例違反、児童福祉法違反などがあるが、いずれも罰則の対象となるのは性を買った側の大人である。どうも売った側への戒めは表に出てこないような気がする。「ウリをやっている」などとという言葉で女の子達の間では当たり前のように認識されていて、当の本人達は犯罪の片棒を担いでいるとの認識がないのではないだろうか。世の中は需要と供給のバランスで成り立っている。その両方を規制しなければ犯罪はなくならない。朝日の記事でも、ネット上の危険サイトを監視するボランティアの紹介などもあったが、当の中高生達の声を拾ってはいなかった。今後はここをきちんとフォローする取材視点が、ネットから生まれる性の犯罪をなくすために必要だろう。

講談社はコマーシャリズムを優先した?

 数日前、横浜の大手書店で草薙厚子氏の記した「僕はパパを殺すことに決めた」を探したが、売り切れというより、もう売り場には出ないのだという。販売員によれば、今後も入荷の予定はなく実質的な絶版となるらしい。それを聞いて思わず「講談社も情けないな〜」と呟いてしまった。出版社、特に広くジャンルをカバーする綜合出版社は、新聞やTVと並んでジャーナリズムであると認識している。雑誌だけでなく、単行本も同様だ。特に草薙氏の著書のようなドキュメンタリーはその性格が強い。単にテーマが面白いから、売れそうだから企画したというコマーシャリズムだけではいけない。今回の問題は、奈良県の母子放火殺害事件の供述調書を漏洩したとして、被疑者の少年の精神鑑定を担当した精神科医が逮捕されたことにある。これまでこうした問題では、著者が捜査の対象となったが、今回は情報提供者が逮捕された。著者の草薙氏は、命に代えても情報源は守ると発言してきたが、調書をほとんどそのまま出版した上に、カバーデザインが少年直筆の「殺害カレンダー」をデザインしたものであり、情報漏洩ルートは自明だったという。
 27日付の朝日新聞朝刊でも、取材される側が逮捕されるというこれまでのジャーナリスト対国家権力の図式とは異なる展開に、「知る権利の危機」であると警鐘を鳴らしている。しかし問題は、むしろそうした国家権力の圧力に対する危機感よりも、ジャーナリストとしてどこまで取材源を守ることに配慮したのかという点だ。本当に配慮して、商業主義を排したのであればその表現方法に何らかの工夫があってしかるべきだと思った。だから実際に著書に当たって、自分の目で確かめたかった。著者だけでなく、出版社も共同責任であり、真に自信があるのなら安易に書店の店頭から撤退させることはしなかっただろうと思うのだ。その点で講談社の情けないな、と感じた次第。こうなると、やはりジャーナリズムとしての矜持よりもコマーシャリズムが優先だったかと思わざるを得ない。

キレる中年に意義あり

 朝日新聞の記事から、さらにTVでも取り上げられたが、「キレる中年」がこの10年で急増しているのだそうだ。キレるのは、若者の専売特許の感があったが、分別盛りの中高年である50〜60代にキレる現象が目立っているらしい。確かに電車や駅、あるいはデパートとか公共の場所で何でそんなに?と訝しくなるほど、激しい怒りを見せる中高年の特に男性を目にすることが増えてきたような気がする。仕事や家庭あるいは社会全体からのいろいろなストレスが引き金になっているのか、との指摘もある。それにしても気になるのは、この年代は筆者が属する団塊の世代を中心とする広がりの中にあることだ。わが身を振り返ると、ちょっと思い当たることがなくはない。しかし、だからといって怒れる中年にならないよう行動を慎もうとは実は思っていない。むしろ逆だ。どんどん怒りを外に発散しようとさえ思っている。
 言い訳ではないが、今の世の中、他人に無頓着で気遣いのない無神経な態度や発言をする人間が多いのだ。その一方では、見て見ぬフリをする事なかれ主義も蔓延している。典型的なのが、このコラムでも以前に触れたJR車内での乗客数十人の目の前で起こった強姦事件だ。この事件などは単なる事なかれではない。共犯ではないか。この乗客の中にはキレる中年はいなかったのだろうか。感情を表に出さず、無表情だったり無言だったりする風潮も増えている。自分勝手な理不尽な怒りは恥ずべきことだが、こうしたおかしな社会の風潮に向かって、正面からきちんと指摘することは誰かがやらなければいけない。理不尽な怒りは弱者に向けられることが多い。例えば駅員さんやデパートの販売員に向けれられるのは、立場上どんなに客が理不尽であっても抗弁できないから弱者だろう。自分の立場の優位性を背景にして、かさにかかって相手を責めるのは卑怯だ。我々男性の立場からいえば、もちろん子供や女性、お年寄りなども弱者になる。筆者が言いたいのは、社会通念上見過ごしにしてはいけない理不尽な振る舞いを見過ごしにしてはいけない、ということだ。
 いくつか筆者の体験から例を挙げよう。電車の通路に長い足を投げ出して座る男。ほとんどが若い。普通の乗客は、その足を避けてあるいはまたいで通っていく。私は軽く蹴飛ばして行く。もちろん軽く会釈することで無用の摩擦は避けるようにしている。『あれ、おどろいたな〜、こんなところに足があった。避けようとしたんだけどぶつかっちゃった』てな感じである。蹴られた方はあわてて足を引っ込める。しかし、相手が悪質な場合、ストレートに怒りをぶつけることもある。ある時、片側2車線の信号のある横断歩道を自転車で渡ろうとした。信号が青に変わってからゆっくりと渡り始め、真ん中あたりに差し掛かったときだ。左から右へかなりのスピードで走り抜ける乗用車があった。悪質な信号無視だ。見落としかもしれないが、それは理由にならない。たまたまそのクルマはその先の信号で止まった。完全な赤信号だったから、今度はそこで止まるしかなかったのだ。私は、自転車でそのクルマを追いかけ、助手席側のドアを蹴ってやった。運転手は怒って「何をするんだ」と言うから、私は「そっちこそ悪質な信号無視だ。すぐそこに警察があるからそこで話ししよう。俺の後からついて来い」とかなり元気よく言葉を発して、道案内すべく先にたって走り始めた。少しついてくる気配を見せたが、結局そのクルマは逃げてしまった。そりゃそうだろう。ドアを蹴られたといっても別に凹んでも傷になったわけでもなかったから、そのまま警察に同行したら損するのは自分の方だと判断して逃げたに違いない。後から家族に話したら、「いつか刺されるよ」とからかわれたが、そういう場面では怒りをストレートにぶつけるのが私流。もしあの特急に私が乗り合わせていたら、犯人に対して直接行動を起こさないまでも、犯行を防ぐために間違いなく何らかの行動を起こしたはずだ。目の前の不正義や事なかれ主義、自己チューで他人への配慮をしない風潮にささやかな抵抗を続ける事はこの先も止めないだろう。

やっぱり怪しかった守屋さん

 人を見かけで判断するのはいいことではないが、この人物に限っては当たっていたようだ。この8月に退任した元防衛省次官の守屋武昌氏だ。慇懃無礼な雰囲気を漂わせ、前任の久間防衛大臣の不祥事の後を受けて就任した小池大臣との確執では、したたかな印象を振りまいていた。20日付けの朝日新聞では、1面ですし屋の会合から出てくる写真とともに、軍需関連企業との癒着、関連業者とのゴルフなど規律違反が露見し、社説にも追及の論評が掲載された。奇しくも、小池大臣が彼との確執の内幕を記した「女子の本懐〜市ヶ谷の55日」が発刊され、なんともグッドタイミング、いやご当人にすればバッドタイミングである。
 これからは、彼の規律違反に端を発し、いろいろな行状が明らかになるだろう。もしかしたら何らかの金の動きも出てくるのかもしれない。そうなると地検特捜部の出番も想定され、小池さんにとっては著書がベストセラー化して思わぬ印税収入にありつける可能性もでてきた。しばらくは、守屋氏の周辺から目が離せないだろう。朝日の写真を後追いして新聞、雑誌を始め、TVなど各メディアが週明けにもいっせいに動き出すだろう。

犯罪者を庇うリーダは小人では?

 先に自治体の年金保険料横領問題を巡り、舛添厚労相が該当する自治体の首長を『小人の戯れ言』と表現したことに関して、今朝の社会面で不適切な表現だったとして撤回する旨のコメントを報じていた。ちょっと残念だった。確かに過激な発言ではある。しかし間違ってはいない。公金横領はれっきとした犯罪であり、それを告発せず実名を公表しないで庇うのは言ってみれば犯罪の片棒を担ぐ行為で、まさに小人のなす業であろう。それをそのまま素直に表現したのだから、責められるべきは隠した自治体であり、その代表者である首長である。年金保険料の健全な運用については、厚生労働省が最終責任をとるべき立場にあるわけで、その実務である保健料徴収と管理という実務を担当する自治体に不正があれば、当然追求しなければならない。不正を見逃そうとする首長に対しては、断固たる態度を示さなければ監督官庁としての矜持が保てない。だから舛添大臣の発言は当然なのである。犯罪者の片棒を担ごうとする首長に何の遠慮が必要であろうか。その辺をメディアも理解しているのだろうか、扱いはこれまでの安倍内閣時代の閣僚失言に比べればかなり小さなもので、ちょっとほっとした感じではある。
 舛添氏はかなり意地っ張りなところがあるとかねてから思っていたが、今朝の記事中でも「本質的なことではないので、不愉快に思ったのなら撤回する。もっと本質的なことをやらなければ」と述べており、表現自体は撤回しながらもその裏側に本音をちゃんと覗かせている。つまり大事なこと、健全運用と犯罪者をしっかり告発、公表することをやろうよ、と言っているのだ。彼には今後C型肝炎問題も浮上しており、しっかりと本質をふまえて本音で厚生労働行政をリードして欲しいものだ。

またもやマスコミのマッチポンプ

 メディア、特にTVのマッチポンプ体質は、ホリエモンライブドア事件を待つまでもなく昔から指摘されてきたことだ。そしてまたもやの事件が起こった。先週木曜日、11日のWBC世界フライ級タイトルマッチで、チャンピオン内藤大助選手に挑戦した亀田3兄弟の次男坊・大毅選手が悪質な反則を犯したとされた問題だ。週明けの今週月曜日に日本ボクシングコミッションJBC)の倫理委員会が処分を発表すると、各メディアはいっせいに亀田バッシングをはじめた。当人だけでなく、中継したTBSTVまでも非難の対象となる始末だ。確かにビデオを見る限り、特に最終ラウンドの抱え投げは、とんでもない反則である。しかし、大毅選手はもうひとつの反則と合わせて、このラウンドだけでボクシングの国際試合では非常に珍しい3点もの減点を課せられたのだから、当然の報いは受けたともいえる。一方のチャンピオンも、同様にクリンチからの反則で減点1点を受けている。それほど肉弾戦だったともいえるのではないか。後半戦の8ラウンドあたりからは二人とも疲労が激しく、結構足元もふらついていた。お互いに低い姿勢をとって頭をつけるように接近して打ち合っていたから、クリンチというよりヘッドロックのような格好になったのも当然だったのかもしれない。しかもヘッドロック気味の抱え込みは、むしろチャンピオンのほうが先に目立っていたのだ。
 今回の問題は、選手だけでなくセコンドについた父親の史郎トレーナーや長兄の弘毅選手の反則を促すような助言がリングサイドのマイクを通して収録されており、これがさらにバッシングの炎に油を注ぐ結果になった。ボクシング好きの筆者にとって、この反則誘導の過激発言をはじめ亀田家のボクシングスタイルは好ましいものではない。リング外での発言も品がないし、好きではない。しかし、彼ら自身はずっとこのスタイルでやってきて、人気者になってメディアも煽り立ててきたのではないか。その結果として、亀田ボクシング登場以来、日本の格闘技の中では興行的に比較的地味だったボクシングが注目されたことは事実だろう。彼らがボクシング業界ひいては情報産業としてのメディアに与えた経済効果を測定したらどのくらいになるのだろうか。彼らは功労者ともいえる。その亀田現象にもっとも影響を与えてきたのが、TVメディアだったはずだ。
 15日の裁定にタイミングを合わせるように、TV各社は午前中からニュースワイド番組の中で、いっせいにこの問題を取り上げていた。コメンテイターとしてゲスト出演した元世界チャンピオンは、才能はあるがこの程度の選手は日本には沢山いる、となぜ彼だけを特別視するのか、とのニュアンスをこめて語った。しかし。これまでの新聞やTVメディアに見られた表現はどうだったのか。曰く、天才であり最強であり、今度はどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、等々期待と賞賛をこめた内容がほとんどだったのではないだろうか。もし大毅選手が勝っていたら、JBCはいったいどんな裁定を下し、メディアはどんな報道をしたのかと考える。まったく違った結果になっただろうことは間違いない。