メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

講談社はコマーシャリズムを優先した?

 数日前、横浜の大手書店で草薙厚子氏の記した「僕はパパを殺すことに決めた」を探したが、売り切れというより、もう売り場には出ないのだという。販売員によれば、今後も入荷の予定はなく実質的な絶版となるらしい。それを聞いて思わず「講談社も情けないな〜」と呟いてしまった。出版社、特に広くジャンルをカバーする綜合出版社は、新聞やTVと並んでジャーナリズムであると認識している。雑誌だけでなく、単行本も同様だ。特に草薙氏の著書のようなドキュメンタリーはその性格が強い。単にテーマが面白いから、売れそうだから企画したというコマーシャリズムだけではいけない。今回の問題は、奈良県の母子放火殺害事件の供述調書を漏洩したとして、被疑者の少年の精神鑑定を担当した精神科医が逮捕されたことにある。これまでこうした問題では、著者が捜査の対象となったが、今回は情報提供者が逮捕された。著者の草薙氏は、命に代えても情報源は守ると発言してきたが、調書をほとんどそのまま出版した上に、カバーデザインが少年直筆の「殺害カレンダー」をデザインしたものであり、情報漏洩ルートは自明だったという。
 27日付の朝日新聞朝刊でも、取材される側が逮捕されるというこれまでのジャーナリスト対国家権力の図式とは異なる展開に、「知る権利の危機」であると警鐘を鳴らしている。しかし問題は、むしろそうした国家権力の圧力に対する危機感よりも、ジャーナリストとしてどこまで取材源を守ることに配慮したのかという点だ。本当に配慮して、商業主義を排したのであればその表現方法に何らかの工夫があってしかるべきだと思った。だから実際に著書に当たって、自分の目で確かめたかった。著者だけでなく、出版社も共同責任であり、真に自信があるのなら安易に書店の店頭から撤退させることはしなかっただろうと思うのだ。その点で講談社の情けないな、と感じた次第。こうなると、やはりジャーナリズムとしての矜持よりもコマーシャリズムが優先だったかと思わざるを得ない。