メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

恨みのグラブ

本格的な野球のグラブを買ってもらったのは、小学五年生の時だった。来る日も来る日も暗くなるまで野球をして遊んでいたから、欲しくてたまらず、祖父にねだったのだった。幼児用グラブは持っていたが、その頃、ソフトボールに代えて軟式ボールを使い出していたこともあり、物足りなくなっていた。
昨今はマイ・グラブどころかユニフォームまで着込むのが少年野球の当たり前のスタイルになっているが、当時はまだグラブは贅沢品で、せいぜい持っているのは二人に一人。外野は素手で守ったり、攻守が交代する度にグラブを外して守備位置に置き、敵味方で代わる代わる使うのがルールになっていた。バットはさらに少なくて、チームに一本か二本、折れても添え木を釘で打ちつけて使ったこともある。ボールも貴重品だった。ファールが草むらに飛び込めば全員総出で捜し回った。格好も普段着のままで、揃いのユニフォームを着ることなどは夢のまた夢だった。
それだけに新しいグラブをはめると晴れがましく、心が浮き立った。高級品ではないが、人気者の長島茂雄選手が使っているのと同じメーカーの品で、仲間たちからも羨ましがられたものだった。おろす前に、祖父は手首の部分の革帯にマジックインキで黒々と私のイニシャルを書いてくれた。思い起こせば、持ち物の何にでも名前を書いたものだった。筆箱や下敷き、鉛筆の一本一本にも尻の部分の塗りを削って名前を書いている級友も少なくなかった。教室でも、よく物がなくなる時代でもあった。
毎夕食後、グラブにオイルを塗って磨くのが日課となった。少々大きめだったので指の先の部分に綿を詰めたり、編み紐も始終調節し、手になじむようにと寝押しもした。本当は自分だけで使いたかったが、ゲームではそうも行かなかったので、手入れの時はグラブが余計にいとおしかった。
夏休みだった。滅多に相手にしたことのない隣の小学校のチームと対戦した。同じ学区内に住んでいたのになぜか、隣の学校に通っていた双子の兄弟が相手チームにおり、その兄と普段のように私のグラブを使い回した。ところが、ゲーム終了後にふと目を話した隙に、私のグラブがこつ然と消えた。双子の兄に問い質すと、「ちゃんと返した。君の横に置いた」と言い張る。弟も「間違いないよ」と言って加勢した。チームメートは「やられたな」と小声でささやきながらも、グランドじゅうを捜してくれたが、もちろんグラブは出てはこなかった。
二、三か月経って、再び同じチームと対戦した。グラブを持っていなかったはずの双子の一方が、なぜかグラブをはめていた。悪びれた様子ひとつ見せなかったので、その後に買ってもらいでもしたのかと思ったが、チェンジになってグラブを借りたチームメートが「お前のだぞ」と言いながら飛んできた。
色形や折りぐせから私のものだ、とひと目で分かった。イニシャルが記されていた革帯には双子の苗字が書かれていたが、革の表面に擦った跡が歴然としており、紛れもなく何度も何度も磨いた私のグラブだった。「このやろう」と、何人かのチームメートがいきり立った。だが、それを見て私は逆に怒りが冷めてしまい、「決め手はないのだから」と必死に押しとどめた。双子はその騒ぎを見ても平然としていた。
大の男がグラブ一つのことで了見が狭いと恥ずかしい気もするが、四十年以上が過ぎた今も、あの時の悔しさは忘れられない。いっそ双子を殴ってでもいれば、たとえグラブを取り返すことが出来なかったとしても、胸がすく思いがしただろうとも悔やむ。名前も自宅も分かっていたのだから、改めて返還を求める手立てもあったかもしれないが、このことは親にも話さなかった。
あっさり引き下がってしまったのは、相手の方が強そうで、喧嘩をしても勝ち目がなさそうに思ったせいでもあるが、言ってみれば、双子の所有欲に圧倒されたのである。私には人の物を盗むことなどはできない。それなのに、双子はただ盗むだけでなく、大胆不敵にも盗んだ相手の前でも堂々と自分の物として使ってすましている。その手強さにひるむと共に、双子の貧しさを哀れみ、蔑みもしていた……というのが、当時の心境だったように思う。
双子は今、何をしているのだろう。あれから己の行為を反省したり、後悔したとは思えないが、グラブを大切に扱ってくれたなら、せめてもの救いである。最近の子どもたちが無防備にグラブやバットやランドセルを道端に放り出して遊び呆ける様を見るにつけ、貧しかった時代のことを伝えるべきかどうか、悩んでしまう。