メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

当て馬世代

 落語家の三遊亭小遊三が郷里の山梨を題材にした新作落語の中で、高校時代に東京オリンピック聖火ランナーを務めた経験を披露し、「大会が成功したのは私のおかげ」と笑わせていた。自分がきちんと聖火をリレーしていなければオリンピックは開けなかった、というのである。
 東京オリンピックの年は中学3年で、私も聖火ランナーに擬せられた。隣の中学のランナーから引き継いだ聖火を掲げて、十人ほどの伴走者を従えて学区内の一キロか二キロを走り、その先の学区の中学のランナーに手渡す。小遊三は自分が聖火を運んだからオリンピックが開かれたように語ったが、実は、聖火はいくつものコースに分かれてリレーされていた。とくに東京都内では全公立中学がリレーに参加したように思う。だから、たとえ小遊三が倒れたり、聖火を消してしまったとしても、大きな影響はなかったはずだ。
 しかし、当時の中学では大変だった。後日耳にしたところでは、職員会議で聖火ランナーに誰を選ぶか、誰を伴奏者にするかをめぐって侃侃諤諤の論議が戦わされたらしい。その結果、私は聖火ランナーの二人の最終候補者の一人となった。考えれば考えるほど妙な話で、担任から「最終選考会に出ろ」と命じられた時はキツネにつままれたような気がしたものだ。希望したわけではないし、かけっこは速い方とは思っていたが、全校を代表するほどのレベルではなかった。運動部で活躍していたわけでもない。相手のA君も似たり寄ったりで、どうして二人が候補者になったのかは謎だった。ただA君は足が長く、スタイルが良かった。
 最終選考会は放課後、校庭で行なわれた。本番さながらに、と言っても聖火トーチはないから、代わりに壊れた箒の柄を持たされ、私とA君がそれぞれ2年生から選ばれた伴走者と共にトラックを走らされた。その間、審査員役の教師たちから「聖火をもっと高く」とか「足並みを揃えろ」といった号令が掛かる。代わる代わる三周も四周も回らされたが、教師たちの雰囲気から、途中で自分は当て馬だと気が付いた。 案の定、私はA君を聖火ランナーとすることを正当化するための存在だったようだ。翌朝、担任から「落ちた」と告げられた。余計に情けなると思って何も言わな
かったが、無性に腹が立った。やりたくもないのに引っ張り出され、恥をかかされただけではないか。しかも、相手とスピードでも競ったのならともかく、スタイルの善し悪しで決するなら、走らせてみるまでもない。ひょっとして誰かが私を買ってくれたのだとしても、大きなお世話だ。これでは不格好を吹聴されたようなものだ。当て馬にされた身になってみろ……。女子生徒の視線も気になる年頃だから、なおさら担任や教師たちが恨めしかった。

 当て馬にされても憤慨するのは筋が違う、と考え直すようになったのは五年前、北海道は日高の競走馬の牧場で、種馬の「ラムタラ」に出会ってからのことだ。「ラムタラ」は英ダービーキングジョージ六世&エリザベス女王賞、凱旋門賞の欧州三冠を制した不世出の名馬で、一九九六年に種馬として約四十四億円という巨額で買われて来た。図体が大きく、栗毛の艶も格別で、群れの中でもひときわ目立っていた。近づくと、勘が鋭そうな目を輝やかせ、妖気を漂わせていた。
 牧場主の話によれば、「ラムタラ」の種付け料は当時一回につき千数百万円という破格なものだったが、それでも十分に元が取れるらしく申し込みが殺到している様子だった。「ラムタラ」は日に四回、三時間おきに難なく種付けをこなすと聞いて驚いたが、さらに驚くべきは種付けの際、一般の種馬のように当て馬を必要としないことだった。「ラムタラ」は賢くて自分の役割をきちんと認識しており、相手の牝馬が現れると、真っ直ぐに向かって行く。牝馬の側もすんなりと「ラムタラ」を受け入れるから、種付けは極めてスムーズに行われるというのである。
 その話には妙に納得するものがあり、聖火ランナーの当て馬にされてから胸の奥にあったわだかまりも消えていくような気がした。当て馬が必要なのは、所詮はドングリの背比べをしているからで、人であれ動物であれ、突出した存在ならば当て馬など不要なのだ、と悟ったからである。だから、当て馬にされるのは自分に中途半端な力しかないせいであって、当て馬にさせた人を恨むより己のふがいなさを嘆くべきだ。本命の実力もタカが知れていたのだし、選考に当たる側は苦労したのだと思えばあきらめも付く。
 そうは言っても、世代として考えると、釈然としないものがある。私たち、いわゆる団塊の世代は全体が当て馬にされてきたような気がしてならないからだ。二部授業をしなければならないほどすし詰めだった小中学校は、新増設されてゆとりが生まれ、狭かった高校、大学の門はどんどん広がった。就職、就業も同様で、万事、私たちが通り過ぎた後で楽になっていく。年金にしても、ろくに負担していない世代の分まで背負わされた挙げ句、お前たちは人数が多いから賄えない、支給額を下げる、といわれては実も蓋もない。私たちは結局、馬車馬であり、競走馬にはなれぬ当て馬
だった。
 こう感じるのは会社員のせいでもあるのだろうか。同世代なのにニコニコして昔話が出来る小遊三は、どこか羨ましい。