メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

表層的な報道に疑問

 報道で大切なのは、関係者の発言を含めた出来事など事象を正確にありのままに伝えることもさりながら、実はもっと大事なことはその裏に潜む真実や背景に迫ることである、とこれまでにも何度か述べてきた。誰それさんがこう言いました、こんなことが起きました、こんな処置が講じられました。そんな表層的な記事があとを絶たない。本日8日付の朝日新聞紙面に見る紙製品卸会社の伊豫商事の不正融資事件もそうだ。売り上げがたかだか7億円しかない会社に総額四百数十億円もの融資が実施され、当然のごとく回収不能となった事件。すでに専務や経理担当役員が詐欺容疑で逮捕されておリ、立件されることは間違いないだろう。しばらくは本件関連の記事が続くとみられるが、本日付けで気になったのは、多額のというより馬鹿げた額の融資を続けた金融機関のコメントと、信用保証をつけてその原因となったとされるJA全農のコメントである。
 ある融資銀行担当者のコメントとして「全農側に保証の確認をとるなど手続きは踏んでいる。なぜ、こんな事態になったのか捜査を見守っている」との内容が載った。対するJA全農関係者は「全農が取引先への融資を保証することは通常ありあえない」と言うのだ。ここにすでに明確な矛盾が見える。両者の言い分が正しいとすると、融資実行に当たって全農側に確認したのなら、その時点でJA全農が保証した事実がないことは、明らかになったはずなのだ。当然融資は不成立だろう。事件は起こらなかった。しかし実際には融資が不正な状況で行われ、回収不能となり、詐欺事件へと発展したのである。この疑問からいくつかの取材すべき点が見える。
 ・すべての銀行が、融資時点でどの程度の調査をしたのか?
 ・その際の保証をつけたJA全農の窓口はどこで、担当者は誰なのか?
 ・全農が融資を保証することはない、のであれば、今回は非通常措置だったのか?
 ・債務保証書は、そんなに簡単に偽造できるものなのか?
 ・社長はなぜ逮捕されずに、処分保留、釈放になったのか?
ちょっと考えただけでもこれだけの疑問が浮かんでくる。さらに深読みすればもっと浮かんでくることはあるだろう。これら疑問は、今後の取材、報道で明らかになるであろうことを期待したい。
今回逮捕された経理担当者が、かつてプロゴルファーと握手したとか、映画に出資したなどの記事はいくつかあるエピソードのひとつに過ぎないと思うのだが。視点をきちんと据えないと本当に重要なポイントを見過ごしてしまいそうに思えてならない。

曖昧な表現の裏から真実を抉り出せ

 政治家と金の問題に揺れた阿部政権から福田政権へと変わっても、相変わらずゴシップの種は尽きないようだ。自民党政府を追い詰める役割を担うはずの民主党の最高顧問、平成の黄門様といわれた渡部恒三氏に事務所運営についての不祥事が持ち上がった。今朝の紙面では各紙いっせいに報ずるところとなったのだが、その記事中で「事務所の実態は議員会館にあり、実態に即していないと言われればそうかも知れない」との秘書氏のコメントが紹介されていた。この発言の裏を勘ぐれば、つまり「実態に即していないと指摘する声もあるが、それはそっちの勝手でしょ。こちらにはそれなりの事情があるんです」ということではないだろうか。さらに「事務所の実態は議員会館にあったが、届け出ることができなかった」とも述べるが、これは「届け出ること」ができなかったのではなく、要はそれをしなかったのだろう。こうした曖昧な言い回しは、日本独特の表現スタイルだ。一応認めているようでいてその実、世間がそう言うから仕方なく認めているような言い方をしているだけで、本音は違う。こうした曖昧な表現をそのまま直接話法で記事にする日本のメディア、特に新聞報道は、もっと曖昧さの裏に潜む本音なり真実を抉り出すことに情熱を傾けるべきだろう。
 同日付の朝日新聞では、ネット上の百科事典「ウィキペディア」への官庁からの修正の書き込みや情報の削除騒動に触れていたが、ここでも曖昧語が溢れていた。例えば、日本初のひらがな表記の県庁所在地であるさいたま市についての、大阪府庁の職員の書き込みであろう。市名が「悪評紛紛であり、しばしば『珍地名』として揶揄される」と加筆したことに対して、府のコメントは「好ましくない行為と言われればその通りでしょう」であった。一方被害者ともいえるさいたま市は、「個人の意見のようなので特にコメントはない」と言うのだ。このふたつの言い方を別の表現にしてみると「好ましいかどうかなんて知ったこっちゃない。一職員が勝手にやったことで、そんな細かいことにまで気を使っていられない。そちらがそう言うなら、そうなんでしょうよ。(大阪府)⇒大阪府さんが公にやったのなら、多少は文句も言いますが、個人が勝手になったので証拠を挙げるの面倒だし、さいたま市民はそんなことで目くじら立てませんでしょうから(さいたま市)」という翻訳もできそうだ。こうした曖昧表現を耳にしたとき、記者の皆さんはどうして「ということは、〜〜という意味になるんでしょうか。どうなんですか?」と突っ込んでいかないのだろうか。

過敏反応はいかがなものか

 このところ個人情報保護法に関する自治体の過剰反応の話題が取り沙汰されている。学校でも連絡網を設けないので保護者がお互いに連絡できずに困っているなどが、話題になっている。確かにプライバシーは大事だし、いたずらに個人情報が流出する事態は避けなければならない。また子供を不審者や凶悪犯罪から守るためにも、情報管理は必要だろう。しかし過剰反応は、時に可笑しさを通り越して、子供たちに人間不信を植え付けかねないとの危険性を感じさせてしまう。21日付の朝日新聞の投書欄の「見知らぬ男が娘を勝手に写す」と題した一文である。女の子を連れた母親が秋祭りに出かけてちょっと目を放している間に、浴衣姿の娘を見知らぬ髭面の男がカメラで撮影したのだという。驚いて警察に事情を話したら、相手にされず捜査もしてくれなかったのだとその母親は不満を述べていた。警察は、日頃から子供を不審者から守ろうといって言っているのに、いざとなったら聞く耳を持たない。そうした不審者を放置してはいけないのではないかと言うのだが、果たしてどうなのだろうか。神経過敏ではと思ってしまうのだが。
 この投書で触れている事実は、「髭面の男が浴衣姿の娘を無断で写真撮影した」だけなのだ。もしかしたら、娘さんは何かしら怪しげな言葉を投げかけられたとか、触られたとかしたのかもしれない。それなら多少母親が心配するのも理解できるところもある。しかし少なくとも投書では、その点は触れていない。先の記述だけなのである。それを根拠に、その撮影者を不審者と断ずるのは果たして冷静で的確な判断なのだろうか。その母親は、日頃から娘に不審な人物を遠ざけるようにしつけているようだが、果たして? 祭りは晴れの場である、人々は浮き立って開放的になっているだろうし、写真好きにとっては、面白い素材が期待できる場でもある。浴衣姿の可愛い女の子がいれば、ついレンズを向ける気にもなるかもしれない。もちろん時節柄本人の承諾を得る配慮も必要だろうが、ついシャッターを切ったからとて責めるに値するだろうか。昔だけでなく、今でも電車の中やショッピングセンターなどで、可愛い子供に向かってつい声をかけているお年寄りを目にすることは珍しくはない。そんな素朴な人情の触れ合いまでも拒絶してしまい、子供に知らない大人を見たら不審者と思え、と教えなければならない時代はなんとも寂しい。

母親は強し

 毎日新聞の「ひと」欄で紹介されていたある女性の記事を見て、だいぶ昔のことだが電車の中かホームのベンチで見た微笑ましく美しい光景を思い出した。若い母親が赤ちゃんにおっぱいをあげているところだった。公共の場所で若い女性が乳房をむき出しにしていたら、ドキッとするかニヤッとするかのどちらかであろう。しかしその時は、そんな男の感情は微塵も感じなかった。女性の乳房をあんなふうに神々しくさえ感じたのは、恐らくその時だけだったろう。同時に、愛しいわが子がお腹をすかしていれば、衆人環視の中であってもためらうことなく、いや例えそれがあったとしてもあえて押しのけ、乳房を含ませることのできる母親の強さをすごいと思った。そういう母親に育てられた子供は、きっと感情の豊かないい子になるのだろうな、と思う。
 ところで件の記事は、手作り授乳服を製造販売する「モーハウス」という会社を運営する女性の記事であった。彼女は3人の子の母親であるが、10年前に電車の中で生後1ヶ月の次女が泣き止まず、ブラウスの前を開けて授乳した経験を持つという。回りで見ている人間の感じ方はとにかく、ご本人にしてみればやはり恥ずかしい経験だったようだ。ところがその後に米国製の授乳服に出会う。胸元を隠しながら他人の視線を気にすることなく授乳できる、独特のデザインだった。以来、これを基に日本人にあった手作り授乳服を開発し、製造販売を続けてきた。「授乳服が普及すれば、女性にとって働くか家庭つまり育児に専念するかだけでなく、中間の働き方も選択肢に入ってくる」との彼女のコメントが紹介されていたが、それ以上に母親とは強いものだ、と改めて感じ入った次第。と同時にこれほど子育てに腹をくくって取り組んでいる女性が、昔に比べて果たして今はどうなのだろうかと考えてしまった。恐らく減っているのではないだろうか。それは最近の子供虐待や躾の低下など、育児や子供の行動の周辺に広がる現象を見れば、残念ながら納得せざるを得ない。

メディアはもっと原発の安全追求を

 04年に続いてまたしても新潟地方で大きな地震があった。各地の被害も詳しい情報が発表されるに従って、次第に増加しているようだ。今回の地震では、東京電力柏崎刈羽原発で火災が発生したが、変圧器から黒煙が吹き上がる様子をTVで見て不安を感じた人も多かったのではないだろうか。同原発では、放射能を含んだ使用済み燃料プールの水の一部が海に漏出したこともあり、改めて原発の安全管理に関心が集まった。しかし、報道の多くは被災地の現状や非難住民達の不安げな表情を点描するだけで、この問題についての詳細な調査報道の類はまだ行っていないようだ。専門的な技術知識を要することもあり、各方面に取材し技術的な裏づけをとって記事にまとめるためには、時間が必要なことは確かだ。紙面への反映までには、もう少し時間がかかると見ていいのだろうか。原発事故といえば、米・スリーマイル島、ロシア・チェルノブイリが世界的に大きな事故として記憶に残っているが、その影響の深刻度は他の産業施設の事故の比ではない。それだけに、原発の安全管理は、100%の絶対性を求められる。しかしどうも日本の原発関係者の間には、技術的なことは素人には難しいから、説明しても仕方ない、との風潮があるらしい。これは取材記者にとっての障壁になるだろうが、ぜひこれを乗り越えて充実した調査報道を期待したい。
 これに関連して、ある論評記事が目に付いた。日経BP社の運営するSAFETYJAPANというセキュリティ情報に関するポータルサイトからの発信であった。建築&住宅ジャーナリストの細野透氏による「柏崎原発の被災を許した大ポカ答弁書」と題するものだ。氏は記事の中で、原発事故に際しての東京電力のコメントを引き合いに、同社の消防能力に疑問符をつけざるを得ないとしつつ、その背景として3年前の中越地震の際の小泉首相答弁書に言及している。これは首相が柏崎原発に関して提出したもので、それを大ポカと断じたのである。当時、地震の少し後に新潟選出の近藤正道参議院議員が「原子力発電所に関する質問主意書」に対する回答として、首相から出されたものだという。この主意書には二つのポイントがあった。以下、記事から引用させていただくと、
・耐震設計審査指針では直下地震の規模をマグニチュード6.5と
想定している。これは過小評価につながらないか。
・耐震設計審査指針の定める地震の速度・加速度の算定式を改め
なくてよいのか。
というもので、これに対して小泉首相は当時の扇千景参議院議長に答弁書を提出したのだが、その内容は、
・敷地の直下または近傍に、マグニチュード6.5を超え、敷地に
大きな影響を及ぼす可能性がある地震震源となり得るような
活断層がないことを確認している。マグニチュード6.5という
直下地震の規模を見直すことが必要となるとは考えていない。
・耐震設計審査指針では、地震の速度・加速度の算定式を定めて
いるわけではないので、お尋ねの点にお答えすることは困難である。
というもの。
 細野氏がまるで門前払いと断じたこの答弁書が、実は政府の原子力行政と電力各社の安全管理への取り組みの杜撰さを象徴しているとみることができる。まず、震源地についての認識である。04年当時の震源地は確かに日本海沖合いであった。しかし、今回の震源地は柏崎市原発建設地の北およそ10km程度なのだ。まさに直下、少なくとも近傍といえるのである。また、地震の速度や加速度の算定式を定めないで耐震設計を実現することはできないのだろうと思うが。氏は記事中で次の点について正式なデータ公開を求めている。
・今回の地震で、原発では何ガル、何カインが記録されたのか。
・今回の地震原発にはどの程度のダメージがあったのか。
・変圧器は何ガル、何カインで設計されていたのか。
・変圧器はなぜ破壊したのか。
さらに、政府は3年前の近藤議員の質問にもしっかりと回答することが必要だとしている。
つまり、
・今回の地震原発の「近傍」なのか、そうでないのか。
原発設計の最大速度は何カインで、最大加速度は何ガルなのか。
・最大速度、加速度に襲われたとき、原発はどんな状態になるのか。
ということだ。これらを反映した調査報道が今後メディア各社から発表されることを期待したい。

匿名性とプライバシー保護の過剰

 このところ役所や学校で、本来必要な保護対象者の個別情報や連絡網のための生徒の情報が個人情報保護を盾にして入手できない状況が続いている。こうした状況に対応して個人情報保護法の改正も検討されているとの記事が数日前の新聞紙面でも報道された。社会の中から個人の顔が次第に消えていくのが心配だ。こうした不気味な現象の向こうから透けて見えるもうひとつの気になる現象が、匿名社会の拡大だ。名前を出さないことが当たり前になると、顔や名前を出さないで、あるいは仮面をかぶってものを言うのが普通になりはしないだろうか。顔が見えるからこそ自分の発言に責任を持つようにもなるし、神経を使うようにもなるはず。そういう習慣が希薄になって、言葉で人を傷つけることに無頓着な風潮が定着するのが怖い。プライバシーの過剰保護と匿名性の拡大は、表裏一体となってこの社会をこの国をどんどん怪しげな方向に導こうとしているのではないだろうか。
 こうした社会的な現象のきっかけ作りに一役買っているのがマスメディアではないか。報道の対象となる個人について、匿名か実名かの判断基準となる年齢の線引きが20歳、つまり成年と未成年となっている我が国では、犯罪だけでなく、多くが匿名報道となる。しかも昨今さまざまな問題が発生する学校では、匿名だけでなく情報の秘匿が当たり前のようになっている。2ちゃんねるの例を待つまでもなく、ネット上に溢れる情報やブームとなっているブログも匿名が非常に多い。当然のように責任の所在を明らかにしないままの発言も多くなる。対照的なのがアメリカだ。1999年の米・テキサス州コロンバイン高校での銃乱射事件のときの現地の報道に実は驚いた経験がある。たまたま仕事で渡米しており、事件の翌朝、宿泊先のホテルで朝食を摂っているとTVの前に人だかりがしている。なんだろうと近寄ってみると、まさに現場からのレポートをオンエアしている真最中だった。その画面で驚いたのは、犯人の2人の高校生はもちろん、現場で捜査を指揮する保安官やその学校の高校生たちがインタビューを受けているのだが、すべて実名なのである。犯人達は顔写真付で報道されていた。その数日後に帰国したのだが、さすがに衝撃的な事件だけあってこちらでも続報などいくつかの報道に接する機会があった。そしてそれらはすべて、匿名であり犯人達の顔写真も公表されてはいなかった。なんだか可笑しくなってしまった。海外での事件ではあっても、こちらでは未成年ということで、匿名扱いした。しかし肝心の当事国では、すべて関係者も含めて実名で顔写真も公表する。そしてネット上では、いまやアメリカの情報でも瞬時にして広まる時代だ。なんだか日本のマスメディアのやっていることが、無駄なことのような気がしてならなかった。

車内での携帯使用禁止の背景って?

 携帯電話が、日常生活の中でのコミュニケーションツールとして、定着してから久しい。今では、仕事だけでなくさまざまな連絡や確認などの手段としてビジネスシーンだけでなく、不可欠な道具となっている。たまに、仕事の連絡手段として「携帯の番号は?」と聞かれて、持っていないと答えると、「あ〜持っていないんですか?」とびっくりされることさえある時代になった。そのくらい生活に浸透してくると、所有する理由が好みや便利だからという個人的なものではなく、すでに持つこと、使うことが社会的な強制力にまでなっているのが実情だ。そうなると問題なのは、電車など公共の交通機関内での使い方であり、そもそも使っていいのかいけないのか、ということだ。携帯電話が普及し始めた頃は、公共の交通機関の中での使用を規制する理由として挙げられたのは、話し声が大きくなって周りの人に迷惑だから、ということだったと思う。ほどなく、携帯電話から漏れる電磁波が近くにいる人の心臓ペースメーカーなどの医療用機器に悪影響を及ぼす可能性がある、との理由が大勢を占めるようになった。ところがその後、この電磁波の悪影響説の根拠が不明確だとの指摘も出てきて、その頃から車内での携帯電話使用に関する規制の理由付けがどうも曖昧になってしまったように思える。
 こうした観点で、携帯電話を規制する車内放送の標準的な内容を聴いてみると、ちょっと変だなと感じる。「マナーモードにして、車内での携帯電話のご使用はお控えください。また優先席の近くでは電源をお切りください」というのが目下の一般的な車内アナウンスのコメント内容だが、まずマナーモードにしましょう、というのは要するに着信音がうるさいから鳴らないようにしろ、ということだ。話し声がうるさいとの理由なら、完全に使うな、という言い方になるべきだ。実際、使う立場になってみると、仕事での連絡はどこでもとれなければ困るだろうし、車内で着信を取る人の多くが小さな声で「今電車で移動中なので後で折り返しかけ直します」といって、すぐに切っている。車内で完全に使うなと言われるのは困るのである。次に優先席付近では電源を切れ、と言うのは電磁波が医療機器に悪影響を与える恐れがあるからだろう。しかしである。心臓ペースメーカーは優先席に座る人だけが装着しているとは限らない。車内のどこにいるか分からないのである。ならば、全面的に車内では使用禁止とすべきなのだ。ところが不思議と、全席禁煙みたいに車内では携帯電話は一切だめ、と表現している交通機関には遭遇したことがない。
 一方で、メールである。現在車内で携帯電話を使っている人のほとんどがメールを見ている。まるで着信から何秒以内にとらないとペタルティ?、と余計な心配をしたくなるほど、必死でメールチェックをしている人のなんと多いことか。携帯電話を手の中で開きっぱなしにして、電車に乗っている間中、ずっと液晶画面を眺めている人も少なくない。電源が入っているのだから、電波は受信しているわけで、電磁波も発生しているはずである。となれば、医療機器への影響はある。ところが、メールを止めなさい、とのアナウンスは聞いたことがない。さらに言えば、ゲームに熱中している乗客も結構見かける。これとて電波を受信していることに変わりはないはずで、これも禁止のアナウンスはない。つまり、携帯電話の電波が医療機器に悪影響を与えるとの論理的な根拠が始めから希薄だったのにアナウンスが一人歩きし始めた。交通機関各社にすれば、社会的風潮だからいまさら止めるわけにはいかない、というのが本音ではないだろうか。かほどに車内での携帯電話は、当たり前の風景になってしまったし、禁止する論拠が曖昧なのだ。後はマナーの問題だから、車内で使う時は小さい声で周りの迷惑にならないようにしてくださいね、という程度でいいのだろう。ところで諸外国では、この問題はどうなっているのだろうか。そういえば、車内アナウンスがこんなにも細かく親切で、結果的にやかましいのは日本だけか。