メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

宿題の宿痾と宿業

 古稀を迎えた従姉と久しぶりに会ったら、「夏が来ると、あなたに宿題をやらされたことを思い出す」と冗談半分で古傷を持ち出した。確かに小学生の頃は夏休みとなれば叔父の家に遊びに行き、従姉たちに宿題を手伝って、というより肩代わりしてもらった。工作や植物標本などは事実上、従妹に任せきりだったし、従兄が何年か前に作った貝殻の標本を物置から探し出し、新しいカステラの箱に並べ替えて新品を装ったこともある。
 6年生だったか、念入りに仕上げてくれた木製のマガジンラックを休み明けに提出したら、担任から「素晴らしい出来だと校長先生が誉めている。差し上げたらどうか」と言われた。愛着があるわけもなく、あっさりプレゼントしたら、それをまた担任が妙に感心したように評するので尻のあたりがむずむずしたことを覚えている。厄介だったろうが、従妹はむしろ面白がっている風で、9月には「評価はどうだった?」と電話で尋ねてきたものだ。
 従妹も私も、どこかで夏休みの宿題を軽んじていたのである。学校に逆らうつもりはなかったが、家族の誰も代作に異を唱えず、一族でおちゃらかしていたのだから、教育的な環境にはほど遠かったと言えるだろう。
 さすがに宿題帳だけは、自力でやった。もっとも夏休みに入って2、3日のうちに8月末の天気欄まで全部を適当に仕上げた。気象庁じゃあるまいし、毎日、天気を記録する意味が理解できなかったし、担任の先生がいちいち点検するとも思えず、タカをくくっていた。そもそも何時の天気を観測しろとの指示も、雲が全天の何割を占めれば
晴れか曇りかといった指導もなかったように思う。申し訳程度の計算問題を仰々しく掲げたり、脈略もなく漢字の練習をさせたり、気紛れのような編集も気に入らなかった。

 学期中の宿題も同じことだが、真に教育効果を求めるのであれば、学力が異なる児童に一律の宿題を課すのはおかしな話だ。1人ずつ不得手な分野を反復練習させたり、興味を抱かせるための思考を促すのが筋ではないか。夏休みの宿題なら、休み中に鉄棒で逆上がりができるようにしようとか、九九を覚えようとか、最寄りの老人介護施設に手伝いに行ってみようとか、担任が本人の希望や意思を確かめながら課題を決めてもいいはずだ。
 画一的な宿題を出すのは、子どものためを考えてのことではない。父母を納得させ、教師は楽をする。結局、大人のためである。家でも学校でも子どもにまとわり付かれると面倒なので、一定時間の自由を奪おうという発想でしかない。それが証拠に、2学期になって夏休みの宿題について満足な点検も新たな指導も行われないのである。
 私たちの世代は人数が多いから、とても児童の個性を伸ばす個別的指導をする余裕などはなかったのだろうが、人形焼のような教育ばかり押し付けられた結果が一方で受験戦争を生み、他方で働くことしか興味がない会社人間を作る結果となった。宿題をやってもらったのは、そうした安直な教育へのささやかな抵抗だった、と弁解めいて言ったら、従妹は「怠け者だっただけでしょ」と言って笑った。