メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

警察は100%完璧であってほしい

 我々の平穏は、全国20万人以上の警察官によって護られている。彼らの99%以上が正義感に溢れ、人情に厚く真実を何よりも尊ぶ人々である。しかし、残念ながらそうではない人間がいるのも事実だ。そのごく一部の人間達によって冤罪事件が起こる。原因は、悪意のある自白誘導や無実につながる証拠の無視、あるいは捜査段階での不作為だ。富山県警が2002年に婦女暴行などの容疑で逮捕した男性が誤認逮捕であった、との事件が先ごろ報道された。当初はっきりしなかった男性の所在が判明すると富山県警は、その男性が無罪であることを発表し、同時に謝罪した。しかし、同時に5年前の取調べにおける信じがたい警察の悪意の操作や不作為が浮き彫りになった。
 事実とは異なる自白へと追い込む調べは、2002年4月初めからあった。男性は「身内の者が間違いないと言っている」と何度も吹き込まれたという。この時点で、彼は身内からでさえ信用してもらえない、と感じたことで気が抜けたようになってしまったのだという。虚偽の自白に追い込まれるまでさほど時間は要しなかった。取り調べでの驚くべき事実も明らかになっている。係官の問いかけに対して、なんと「うん」「はい」以外は口にしてはいけない、「いいえ」とは言うなと命令された。さらに自白を一切覆さないとの念書も書かされ、書名のうえ指紋押捺も強制されたという。重要なことは、明白なアリバイになりうる電話である。つまり、犯行時刻にこの男性は自宅から知り合いに電話したと主張したが、その裏づけをとることもせず、一方的に無視しただけでなく、相手が否定していると嘘を吹き込んだのである。皮肉なことに、今月19日付けで男性の無実を証明する事実として発表したのがこの電話である。5年前の男性の証言に基づいて、その時点で電話の通話記録を調べておれば、もっと早い時期に無実が判明していたのではないか。
 今回、無実を公表すると同時に謝罪のコメントを発表した富山県警であるが、それを聞いていると、本当に反省はしていないのではないか、この期に及んでまだ体面などを気にしているのだろうかと思えてならない。次のような言葉である。曰く「取調べの様子については、細部は具体的には聞いていない」し、「捜査に若干、不十分な点があった」というのである。何が若干なのか? 大きな不作為と悪意があったではないか。この期に及んで見苦しい言い訳をするものだ。さらに、具体的に聞いていないとは何だ。これだけ問題になったのだから、当時の取調べ調書を検証するなり、担当官から当時の話を聞くなりするのは、警察機構の責任者なら当然すべきことではないのか。警察の調書とは、被疑者への尋問を事細かに記載し、それに対する自供を正確に事実だけを語る言葉として書きとめ、最後に被疑者自身の確認を得て指紋押印するものだ。当然当時の書類は保存してあるはずだから、検証することはたやすい。ましてや、自白を一切覆さないとの念書を書かせるなどは違法捜査になるだろう。この点をメディアも知っているのか、どうか。こうした事件での報道姿勢で、肝心の部分がふっと抜けてしまうことがままあるのだが、今回の事件でもそうした事態に陥ることなく、新聞はじめメディアは事実の究明を富山県警に迫ること、違法捜査についてのけじめをどうするのか明確な回答を引き出すことを今後も追いかけてほしい。そうしないと、いつまでたっても警察官が100%完璧になることは、しょせん夢物語になってしまう