メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

子供に必要なものは?

 07年初めの毎日新聞の特集記事をウェブで読んだ。「子どもの空間」と題したその記事は、学校はいらない、先生は母と祖母と曾祖母なのだという。岐阜県在住の小学校2年生のその女の子は学校には行っていない。母親が算数や国語を教え、祖母がそろばんと畑仕事を、曾祖母が戦時中の体験を聞かせる。近代史の生きた教材といったところか。幼い頃から友達と競うのを嫌がっていたその女の子は、小学校就学時にフリースクールを選んだ。ところがそのフリースクールさえ、1年生の夏休みが終わる頃には、行き渋るようになった。友達と張り合いたくないのに、先生が比べたがったからというのがその理由だ。
 その後に母親は、「ホームスクール」の本を図書館で見つけ、それを頼りにわが子に自宅で授業を受けさせるようにした。もちろん正式な学校のカリキュラムとは異なる、我流ともいえるものだ。女の子は、当初学校に行かなくてもいいのかと不安がっていたらしい。母親自身も若干の後ろめたさを感じてはいた。こうして始まった家族による家庭での自主授業。しかし、家での勉強が軌道に乗り始めた頃、足し算でのちょっとしたつまづきをきっかけに母親はつい大きな声を上げてしまう。「何度言ったら分かるの!」対して女の子は、「分からないって、そんなにいけないこと?」と反発。しばらく泣きじゃくった後、勉強を放棄するようになってしまった。それでも3ヶ月ほどしてどうにか机に向かうようになり、このやり方に対する学校の理解もあって、今では3年生の算数が修了するという。女の子は、勉強中にチョコが食べられるから学校より家がいいのだと言う。そうこうするうち、彼女にも近所の友達が少しずつ増えてきた。外に遊び行くようになり、鬼ごっこもするほどになった。
 この連載は、まだ続きがあるのだが、その後の女の子の勉強の進み具合や友達の付き合いの具合は分からない。しかし、いくつかの気になる点がある。確かに算数や漢字の書き取りなど、しかるべき本と知識があれば、家でも教えることは可能だろう。が、学校という集団で学ぶことはそれだけではない。コミュニケーションすることもそのひとつだ。コミュニケーションには「譲り合う」ことを含む。女の子は、「学校と違って勉強しながらチョコを食べらるから家のほうがいい」と語っている。学校では規則がある。やってはいけないこと、やらねばならないことを体で覚えることが重要な学習であるはずなのだが。このところいじめ問題もあって、子どもの教育や躾の在り方を巡ってさまざまな意見がメディアでも取り上げられている。その多くが「子どもに強制してはいけない」「逃げ道を用意すべし」「頑張らなくてもいい」といった言葉だ。果てしてそれが本当に子どもの将来を拓くことにつながるのだろうか。どうも疑問に思えてならないのだが。確かに子どものある時期には、こうした考え方は子どもが現在抱えている問題から守るために有効ではあるだろう。しかし子どもはやがて成長して大人になる。大人になれば、いやでも多くの規則に縛られ、困難にぶつかる。大人になるとこうした困難から逃げることは許されない。自らの力で乗り切らなければならない。子供のころにそうした困難にぶつかったとき、逃げることを、学んでしまった子どもは果たして自分で解決策を講じることができるのだろうか。しかもやがて自らも子どもの親になったとき、今度はわが子にどうやって対処法を教えられるというのだろうか。正直なところ、この問題についてはピンポイントでの正解を得るのは難しいだろう。しかし、子どもはいつか成長して大人になることを忘れてはいけない。子どもがそのまま大人になってしまうことの弊害は、世の中に溢れている。