メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

取材源秘匿を巡る司法判断について

 米国の健康食品会社が米政府に損害賠償を求めた訴訟の嘱託尋問に際し、読売新聞の記者が取材源を秘匿した、としてその可否を問う裁判の判決が17日、最高裁で下された。食品会社側の特別抗告を棄却する、との判決で、これにより記者の証言拒否を認めた先の東京高裁の判決が確定したことになる。18日付の読売新聞では、今回の判決の中で同様に取材源秘匿を巡り、今年3月に同じく最高裁が下したHNK記者のケースに言及したことを記事で引用していた。HNKの取材に関する判決は、「取材方法が一般の刑罰法令に触れない限り、原則として取材現に関わる証言は拒否できる」というもので、これは言論、報道に関わる者あるいはそうした仕事の本質を理解するものにとっては、至極当然とも思われることだ。
 この報道に接して、今回の最高裁判決よりもむしろ気になったのは、1審の東京地裁における判決が根本的な矛盾を含んでいたのではないか、ということだ。そして、2審の高裁から最終の最高裁に至るまで、結果的には当然の帰結となったのだが、筆者が指摘する矛盾には明快に触れていない。論点を明示する前に判決の流れを簡単に整理してみよう。1審では、「守秘義務違反が疑われるような取材源について証言拒否を認めれば、犯罪行為の隠蔽になる」というのである。2審の高裁では、「取材源秘匿は、知る権利を守るという公共の利益につながり、取材源に守秘義務違反があっても取材源を秘匿できる」と述べている。最高裁は、この2審判決をほぼ踏襲したものとなっている。
 さて、問題の論点である。1審では(公務員の)守秘義務違反を隠すことになるから取材源を隠してはいけない、とした。例えば警察や検察の捜査に対して何が何でも取材源を明らかにすべしとは言っていない。つまり公務員に課せられた守秘義務違反という法律違反行為を明らかにすべき場合には、取材源を隠してはいけない、と言っているのだ。すると、それ以外の場合は取材源を秘匿してもよろしい、となる。実は、報道に関わる者にとって、いかなる場合であっても取材源を特定できるような情報は公表してはならない、と言うのは通常の自由主義圏においては普遍の原則であろう。報道者は、違法でない限りはあらゆる情報源を駆使し、手段を講じて真実に迫るのが使命だ。そのためにも取材源は、守らねばならない。でないと情報提供者と報道者は互いの信頼関係が築けない。信頼関係が壊れれば、正しい情報は入手できず、正確な報道は不可能になる。そして一方では、公務員の守秘義務である。公務を通じて知った情報はみだりに漏らしてはならない。これも重要な大原則だ。つまりこの両者は交わらない。同じ土俵で論じること自体が矛盾しているのである。取材の相手が公務員だとして、どうしてもそこからの情報が必要な場合、金銭授受や脅迫など情報入手方法そのものに違法性がなければ、その公務員が職務上の秘密を漏らしたとしても、取材側にとっては、秘密漏洩幇助などにはならない。この大原則が、1審とそれを受けた2審、さらに最高裁に至るまで、結局明示されてはいなかった。