メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

スポーツ清新

 今年の夏の甲子園の決勝戦で、久しぶりに高校野球の醍醐味を満喫した。涼しい表情で力投する早実の斉藤投手はスマートで礼儀正しく、若者らしい色香に惹かれるものがあった。対照的に駒大苫小牧の田中投手は闘志あふれる豪腕を振るったが、プレーの合間に見せる人なつこい笑顔はあどけなかった。
 圧巻は再試合の最終回、斉藤がラストバッターとなった田中を外角への144キロの直球で三振させた場面だ。斉藤は角度のあるスライダーを決め球にしてきたのに、長打力のある田中に速球で真っ向勝負を挑み、田中もまた、思い切ってバットを振った。何とも天晴れな対決だった。両校ナインの表情も清々しく、勝敗を超越していたのか、屈託やけれんみを感じさせなかった。
 球児たちの顔つきがこんなに明るくなったのは、いつ頃からだろうと、ふと思った。夏の大会では、1963年に準優勝した下関商業池永正明投手の奮闘ぶりが、その後の数奇な運命と重なって、妙に忘れられないのだが、あの時の池永は2回戦で左肩を負傷する不運にもめげることなく、苦痛に顔を歪めながらも3試合を投げ抜いた。
 そう、甲子園では汗と泥と涙と言うより、苦悶と意地と悲嘆の熱血ドラマが演じられてきた。勝てば名誉だ栄光だと騒ぎ、負ければ恥だ屈辱だと嘆く。スポーツマンシップやフェアプレー精神がもっともらしく唱えられていても、およそスポーツを楽しむという発想に乏しく、爽やかさや清楚さよりもむき出しの闘魂や精神論がもてはやされてきた。


 野球に限った話ではない。あらゆるスポーツが根性物語だった。試みに東京オリンピック当時の新聞の縮刷版を開くと、昨今との違いに驚く。写真で笑っているのは金メダルに輝いたレスリング選手と重量上げの三宅義信選手ぐらいで、ほとんどの選手は表彰式でさえ顔を引きつらせている。選手や監督の談話もおどろおどろしい。「倒れるまでがんばる」(男子体操)「俺がへばったら日本の陸上界は……」(マラソン)「責任と緊張で胸が張り裂けるほどだった」(女子バレーボール)……と悲壮感さえ漂う。次は金メダル、と期待された円谷幸吉選手の自殺が、何よりも時代の風を象徴していた。
 もともとスポーツには擬似戦争の要素があるからやむをえない側面があるのだが、当時の人々は日頃の欲求不満や敗戦の悔しさをオリンピックで晴らそうとしていたのかもしれない。根底にあったのは、勝負となると武士道を気取る日本人の性癖だろう。「常に郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励して其の期待に答ふべし」。戦前戦中に暗誦させられた「戦場訓」が染み付いて、戦後も抜けきらなかったのだろう。国威発揚の場ともなるオリンピックならまだしも、各種の地区大会や隣の小中学校との対抗戦でも皆が目の色を変えて、敗北を喫すれば地球の終わりのように考えていたのだから哀しくもおかしい。


 曲者なのは、「断じて勝たねばならぬ」という考え方は、裏返せば「頑張って負けたのならば許せる」となることだ。許さないと圧倒的多数派の負けた側が救われないのだから当たり前といえば当たり前だが、「試合に負けたが勝負に勝った」とまで言い出す人もいるから訳がわからなくなる。勝負を競うスポーツでは勝たねばならない。ただし、負けてもそれだけのこと、全人格を否定されるわけではない――と言えば良いのに、結論をあいまいにしたがるから厄介になる。
 ひょっとすると、敗戦を終戦と言い換えたり、戦争責任をあいまいにしてきたこととも通底するのかもしれないが、頑張ることを善とする風潮が強まったのだからスポーツだけの問題ではない。とりわけ勉学も精神論で頑張らねばならない、と勉強が苦手な子にまでガリ勉を押し付けたのがいただけない。挙げ句がいわゆる受験戦争だ。本来、志願者が多ければ門戸を広げて受け入れるべきを、施設拡充が進まぬ分、ふるい落としたのだからひどい。しかも、がむしゃらに受験勉強させた結果、志望校に合格しなくても、頑張ったことに意義がある、と慰めた。受験生にドラマを演じさせ、行政の不始末を尻拭いさせたようなものだから、為政者にとってこれほど都合の良い話もあるまい。
 結局、受験戦争は劣悪な教育環境のまま、突出して人数が多い私たちの世代を通過させるための方便だった。甲子園を舞台にした熱血ドラマは、私たちを競馬馬に仕立てるために都合よく利用されたのだろう。振り返れば、全共闘運動などは、そのことに気づいた競馬馬たちの反逆だったのかもしれない。
 何事につけ頑張ることは大事だが、人生は楽しむもの、頑張るためのものではない。スポーツも頑張るために存在してはなるまい。時代の価値観に与える影響力を踏まえれば、なおさらだ。オリンピックでは1984年のロサンゼルス大会あたりから、笑顔があふれるようになったような気がする。礼節と同様に、スポーツの心も、衣食足りて分かるものなのだろうか。スポーツは精神でなく、清新で行こう。