メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

 知らぬは地獄

 江戸川の水で産湯を浸かったフーテンの寅さんではないが、多摩川で泳ぎを覚えた、と言うと、いかにも江戸っ子らしく響くだろうか。それとも年寄りだと思われるだけか。
 小学生の頃、多摩川へは自転車で小一時間もあれば行けたのでよく出かけた。さすがに丸子橋の堰堤付近は流入した洗剤のせいで水が泡立っていて泳ぐどころでなかったが、二子玉川より少し上流の砧では清流が保たれていた。1960年代の話である。
 後には川底の砂利をしゅんせつしたため流れが変わり、全面的に遊泳が禁止された。1974年には台風の豪雨で堤防が決壊、川べりの住宅が何軒も濁流に呑み込まれる光景がテレビに映し出され、暴れ川に変貌させた治水工事の是非が問われたこともある。だが、昔の砧では普段の流れは緩やかで、水深もせいぜい子供の胸あたりまでしかなかった。
 砧は今でこそ閑静な住宅地だが、当時は東京の外れの田園地帯で、川沿いに田んぼが広がっていた。その中を単線の線路が走っていて、うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さなホームが、終点の砧駅。玉電と呼んでいたチンチン電車が時折、思い出したようにやってくるたび、騒々しい蛙がぴたりと泣き止むのがおかしかった。 葦が生い茂る岸辺の一角に、万年塀に囲まれた歯磨き工場がぽつんと建っていた。工場にしてはやけに静かだったが、いつもハッカの強烈な匂いを立てていた。多摩川に吐き出す排水も、ハッカの匂いがした。私たちはわざわざ排水口まで泳いで行っては「いいニオイ、いいニオイ」と無邪気にはしゃいだものだった。体に影響があったかどうか、「公害」という言葉は、まだ生れていなかった。

 振り返れば、空恐ろしいような体験は少なくない。理科室で石綿をちぎったり、アルコールランプの炎にかざして不燃布であることを確かめる実験をした記憶もある。
 保健室に列を作って、予防接種を受けた時の光景も忘れられない。注射は痛くても、非日常的ゆえに子供たちは「ハレ」の行事のように受け止めていた。なぜか心が浮き立ち、腕まくりするのも晴れがましいような気分だった。接種は流れ作業で、看護婦が「はい、次」と声を掛けながら脱脂綿で消毒するそばから、校医が注射器を次々と子供たちの腕につき立てた。
 脱脂綿も注射器も、同じものを使い回していた。注射筒に前の子の血が滲んでいたこともあったが、BCGなどは青くて細い注射器一本で五、六人に打っていた。校医は別として、だれも感染症など心配していなかった。私は自分の番が新しい注射器に取り替えた直後だといいな、と思ったことを確かに憶えているが、一方で好きな女の子と同じ注射器で打ってもらえたらいいな、とも考えていた。
 無知とは怖い。情けなくも、哀しい。あれから半世紀近く経った今になって、国が危険性を承知しながら予防注射の回し打ちを放置したためB・C型肝炎がまん延した、と裁判で断罪された。私たちがはしゃいでいた陰で、怠慢を決め込んだり、あざ笑っていた人がいたかと思うと腹が立つ。終戦後、人間が大切にされるようになった時代に育ったと思い込んでいたが、とんでもない誤解だったことが最近、次々と明かされる。よくぞ生き抜いてこれたものだと、妙な感慨さえ覚える。
 民主主義と科学の進歩の中途半端な恩恵に浴してきた私たちは、恩恵をまったく受けなかった時代の人々に比べ、果たして幸福だと言えるのか。過渡期世代の恨みは複雑だ。

<データ・血液の危険の歴史>
■1945(昭和20)年
 すでに欧米の専門家は注射器の使い回しは感染症対策上、危険と認識。
■1948(昭和23)年
 第17回赤十字国際会議で、血液の無償提供と受領の原則を提唱。
■1949(昭和24)年
 厚生省、日本赤十字社日本医師会などで組織する輸血問題予備懇談会が、血液事業は日本赤十字社中心の無償を原則とすることを確認。
■1951(昭和26)年
 営利を目的とする民間血液銀行の日本ブラッドバンク(旧ミドリ十字の前身)設立。
■1960(昭和35)年
 国際血液学会が日本の売血依存の血液事業を非難。
■1962(昭和37)年
 新聞各紙が売血の危険性を指摘する「黄色い血」キャンペーンを展開。
■1964(昭和39)年
 ライシャワー事件(3月)。米駐日大使が暴漢に襲われて全治1カ月の重傷を負い、病院で手術を受けた際、商業血液銀行の血液1000ccの輸血を受けたため血清肝炎に感染、売血が社会問題化。
 保存血を売血から献血に切り替えることを閣議決定(8月)。
■1974(昭和49)年
 献血による保存血確保を達成。