メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

はじまりは給食

 冷たい雨が降る、うっとうしい日だった。古びた木造校舎の教室には生温くすえた空気がよどみ、水蒸気がびっしりと窓ガラスを覆っていた。先に登校した何人かが、片隅を指差してキャーキャー騒いでいるので、何事かと覗いてみると、床板の上で太くて大きなとぐろが湯気を立てていた。
 同じ教室を使った隣クラスの誰かが、下校直前、我慢ができずに用を足したらしい。小学校のトイレはいわゆる“ポットン便所”で、怖がって使えない子がいたせいか、誰かが粗相して騒ぎになることが珍しくなかった。それにしても、教室でパンツまで下ろすとはけしからん奴がいたものだ。教室は食堂でもあるのに、次に使う者のことを慮ることなく、汚していった相手に腹が立った。
 私たち一年生は、二部式授業を強いられていたのだった。同じ教室を二クラスで使い、一カ月交替で、一方が朝から授業を受けて給食を食べて帰ったら、他方は登校したらまず給食、それから授業……という決まりだった。戦後十年が経っていたが、都会では小中学の新増設が進まず、ベビーブーム世代を満足に収容できずにいた。
 その日、私たち一年二組は午後の番で、一年一組が引き上げた教室に入って、騒ぎになったのである。思った通り、給食は惨めなものとなった。担任があわてて片付けるのと入れ代わりに、給食用の大バケツが教室に運び込まれた。じとじとした大気中で食べ物と忘れ物の臭いが絡み合っているようで、胸がむかつき、パンも副食も喉を通らなかった。
 二部式授業は、もともと好きになれないシステムではあった。自分の席が決まっているのに、同じ机とイスを得体の知れぬ誰かに使われているかと思うと落ち着きが悪かった。午前の番の月はましだったが、午後の番だと誰かが腰を上げたばかりの座布団に座るような不快感があった。物もよくなくなった。文房具も衣類も教室に置き忘れたら、まず出てこなかった。いきなり給食という時間割もなじめぬもので、美徳に反するような、やる気をそがれるような妙な気分だった。
 教室だけでなく、何もかもが足りなかった。比較的広かった校庭も、あふれかえる子供たちには狭すぎた。休み時間に出遅れれば、他学年や他クラスに占拠されていて、遊ぶ場所がなかった。戦争中は防火用水だったというプールも長さが15メートルしかなく、いつも芋を洗うような状態だった。いつでも、どこでも、体も言い分も誰かとぶつかった。当然、トラブルや喧嘩も多かった。その分、団結する必要があったせいか、クラスとしての連帯感はやけに強かったような気もする。

 その後、ベビーブーム世代は受験戦争を経験し、全共闘運動やフォークソングにのめりこんだりしながら、社会に出てからはモーレツ社員に転身した。「団塊の世代」とも呼ばれ、旅行や帰省で大騒ぎし、マイホーム建設に狂奔した。エネルギッシュでどこか闘争的な世代としての特徴は、とどのつまりは小学校の二部式授業で競争心や敵がい心をあおられたせいではないか、と思えてくる。
 中学卒業から半世紀が経とうという2006年3月、東京・目黒にあった母校の小学校と中学が共に廃校の憂き目にあった。少子化に加え、人口空洞化の影響らしい。姿あるうちに、と訪ねた母校の校庭は休み時間もひっそりとし、子供たちの姿はまばらだった。
 活気が漲り、止むことを知らなかった喧騒が、夢か幻だったような気がする。まるで季節はずれの海水浴場に立った気分だ。来し方や今の自分に格別の憤懣があるわけではない。それなりに充実感もある。それでも一方では、こんなはずではなかった、と思っている。時代と世代の移ろいに戸惑い、屈託が晴れないのは私だけであろうか。