メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

違う方向へ走り出してしまった東武鉄道の運転員解雇問題

少し前に東武鉄道の運転員が、たまたま電車に乗り合わせた我が子を運転席に入れたまま1駅だけ乗せたことを理由に会社から解雇処分を受けるという出来事があり、メディアはじめ巷の関心を呼んでいる。ところが眼や耳にする論議は、いずれも「処分は止むを得ないが、解雇処分は厳しすぎる」「いや妥当だろう」というもの。一方、会社は世間の声がいかにあろうと断固、処分は変えないと、わざわざメディアを通じて発表するなど、処分の在り方だけに目が向けられた格好で、肝心の問題の本質が論じられていない。全国から処分の軽減を望む声が多数寄せられているとか、その背景には「子供が将来、自分が原因で父親が解雇されたことを知ったら傷つくに違いない」との指摘がある、といった視点ばかりが目立っている。メディアの視点が見事に同期している。それは硬直化しているからだ。

実はこの問題は、本質的には簡単なことで、何故かくも大きな騒ぎになるのかわからない。それは、この件がニュース化されてほどなく、処分の重さはいかに、という点で社会的な関心が集まり始めた時点でそれを煽り立てたメディアに責任の一端がある。最近も、シニアの生活感覚を広い視点から取り上げるシニアコミュニケーションR-50というウェブサイト上で、次のようなNETアンケートを実施していたことに象徴される。ちなみにURLは、以下の通りである。内容は・・・
 ●運転士の解雇は妥当だ    30.00%
 ●運転士の解雇は厳しすぎる処罰だ 30.00%
 ●どちらともいえない       40.00%
となっていたが、まさに見事なくらいのステレオタイプだ。

まず事の本質は、人命を預かる鉄道運転員という仕事の性格上、安全に影響するかもしれない公私混同は処分の対象になる、ということ。これは労働協約、あるいは就業規則に明記してあるはずだ。次に過失内容とそれぞれに対応する処分の内容である。これも明記してあるだろう。これらの規則は、会社や勤務する人間にとってはいわば憲法のようなもの。絶対基準であるはずなのだ。もちろん労働基準法など関連の法律に照らして不備があれば、監督官庁から指導があるが、今回はそれはないようだ。とすれば、今回の出来事は単に東武鉄道という一企業内で起こった一社員の不祥事を規則に照らして合理的に決定したに過ぎない。この運転員の行為が、何らかの危険を発生させた、あるいはその可能性を多分に含んでいた、というならまた別の展開もあったろう。しかしそれがなければ、社外の人間がやれ処分が重いの、子供が可哀想のと騒ぎ立てることではないのである。
 
結果的には、事態は違う様相を見せている。現状では、どうもこの運転員氏が気の毒である、会社はそこまで厳しくしなくてもいいのでは? との論調に傾いている。これはその意図があったかどうかは別にして、メディアのある種の世論操作ではないだろうか。要因は、視点が硬直化することで同期に結びついてしまったことである。別の視点としてどんなことが想定されるだろう。まず当事者である運転員氏への取材がない。彼は、自分の行為が解雇に結びつくような重大なものだとの自覚があったのか? その場にいて子供を運転席に入れたしまった妻の考えはどうなのか? その時点で、いったん駅に降りて次の電車を待つことは出来なかったのか? この会社の就業規則はこの件で解雇とした点で法律的な問題はないのか? 労働組合は、何か運転員氏の身分保全に向けて運動する構えはあるのか? 当該の社内資料は外部に公開できるのか? メディア各社はその具体的な資料を入手する努力をしたのか? 他の鉄道会社では、このケースをどう見ているのか、同様に解雇になるのか? ざっと頭をめぐらせただけでも、これだけのことが浮かんでくる。メディア各社がそれぞれの感性で視点を定め、取材を進めたらこの出来事はまったく違った展開を見せたのではないかと思うのだが。