メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

電話急げ

 カルチャー教室でマスコミ志望の大学生の作文の添削指導をしていた時、「手紙」という課題で演習したら、約20人の学生の過半数が「手紙は電話と違って自分の考えを整理して相手に伝えられる」と異口同音に書いてきたので愉快になった。やはり若者たちは、電話ではろくに考えずに話していたのである。そうでなければ、あそこまで頻繁に、しかも長い時間、携帯電話を使ってはいられまい、とにらんでいたからだ。それにしても、若者は自分の考えも整理しないまま何を長々と話しているのだろうか。
 ひと昔前は、電話では手短かに差し迫った用件だけを話すものと決まっていた。公衆電話の料金は何分間喋っていても市内は一律10円だったが、次に使う人のことを考えて早く切ることばかり考えたものだ。「善は急げ」ならぬ「電話急げ」である。
 電話の台数も少なかった。名刺に連絡先は呼び出し電話と刷り込んでいる人も珍しくなかった。東京都内で局番が2桁だった頃、なぜか早くから引いていた我が家の電話は、向こう三軒両隣で共有しているようなものだった。今思えば回数はさほどでなかったようにも思うが、それでも毎日のように隣家への電話が掛かった。そのたびに呼びに行かされるのが私の役目。起き抜けのことも、夕食時のこともあったから、呼ぶ方も呼ばれる方もプライバシーなどお構いなしだ。話している内容はつつ抜けだし、とても長電話をできる状況でもなかったが、不便さを疎むよりも、近所同士が通話の内容に一緒になって一喜一憂しながら、仲良く暮らしていることを互いに喜んでいたような気がする。本当に必要な電話しか掛かってこなかったせいだろう。

 いつの間にか電話が情報伝達の手段から、会話を楽しむ道具へと変わっていることは確かだ。だからこそ携帯電話も普及したのだろう。生活が彩りを増したのならば結構だが、無意味であっも言葉を交わす行為ばかりを求めて、人と心を通わせたり、気脈を通じたりすることの大切さを忘れているように感じられてならない。もし、話し相手なしではいられないほど寂しくて電話をしているなら、だらだらと喋っていても電話を切った後で虚しくなるのではないだろうか。
 「目は口ほどにものを言い」というが、気持を相手に伝えるには、相手の顔を見ながら話すに限る。電話だとよほど言葉を選ばなければ、真意は伝わりにくい。新聞記者をしているので余計にそう感じるのかもしれない。電話で取材した内容で記事をまとめる時はどこかに不安が残るからだ。相手に直接会って話を聞かないと、ニュアンスが分かりにくいし、プラスアルファの情報も得られない。電話では失礼との発想もいまだにある。
 奇しくも学生たちが「自白」したように、ろくに考えもせずに通話ができるのは、個人個人で持てるほどに電話機が普及し、電話の有り難味が薄れているせいでもある。飽食の時代は食べ散らかした末の残飯が増えるのと同じようなものだ。無意味な言葉や不要不急の会話が横行する現状をみると、便利さとは何かを考えさせられてしまう。