メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

汽笛は呼び覚ます

 引退したSLを引っ張り出し、かつての雄姿を再現させる“復活運転”は好きになれない。元鉄道少年としての愛着は人後に落ちないが、今さら未練がましいだけだ。人にも物にも生きるべき時代がある。高層のモダンな駅舎をバックに走らせたり、ましてや新幹線と併走させるのは、SLに気の毒と思えてならないのだ。
 四、五年前、北海道の留萌線で「すずらん号」と名づけたC51を見た時も鼻白んだ。牽引するこげ茶色の客車は遠目には往時のものと映ったが、近づけば新品で、窓は空かず、デッキに自動ドアが付いていた。客室は冷暖房完備で、汽笛や線路を走る音もかすれてしか聞こえない。とても醍醐味は伝わって来ないのだが、乗客のほとんどは子供連れの若夫婦だったから本物を知っているとも思えなかった。
 SLもどきがもてはやされるのを目の当たりにし、いよいよ“復活運転”を疎ましく感じたが、静岡・大井川鉄道のSLに乗って、考えが変わった。
 客車も旧式で、車体には凹みや傷が目立つ。ブルーの塗装はあちこちで剥げ、一面が白く粉を噴いたように古びている。客室のニスを塗った壁板や窓枠は、使い込まれてきたせいで艶々しい。座席は垂直に背板が立つ四人掛けだ。車窓の景色も大井川の河川敷で稼動するブルドーザーが見えるほかは、半世紀前と大差はない。トンネルに入ると、窓際の乗客たちがあわてて窓を下ろすのも昔ながらの光景だった。乗客もなぜか、お年寄りが多かった。
 窓のすき間から入り込む煙の懐かしく、香ばしいような匂い。そして、もの哀しげに「プォーッ」と長引く汽笛。そうだ、これだ。これがSLの旅の魅力だ、と思わずにはいられなかった。

 窓枠に陶器入りのお茶を置き、向かいの席に足を投げ出して夜汽車に揺られた日、長野・大糸線沿いの農家に泊り込み、緑の田んぼ越しに走り抜けていくD51を飽かず眺めた日々……。遠い霧のかなたに消えていた記憶が次々によみがえる。他の乗客たちも同じ思いなのか、発車した直後は妙に浮かれていた車内が静まり返っている。
 後は振り向くまいと心得て生きてきた。抜け殻と化したSLの運転が気に入らなかったのは、昔日を呼び覚まされるのを敬遠したせいでもあった。だが、視覚と聴覚と嗅覚から昔を突きつけられたのではかなわない。タイムマシ−ンの心地よさにとっぷり浸かるしかなかった。
 僕たちベビーブーマー世代の青春は、SLの終幕と重なる。そのせいで青春のはかなさが、惜しまれつつ消えたSLの軌跡を通じて増幅された面は否めない。都会で育った者には、SLは長距離旅行を意味していた影響も見逃せない。SLを見たこともない若者はもちろん、山手線や中央線にSLが走っていた時代を知る高齢者とも違う、SLへの独特の愛着が僕たちにはある。
 とにかく人数が多く、遊びも勉強もがむしゃらに取り組むように求められた己が生き様が、煙と蒸気を吐き出しながら懸命に疾駆するSLと通じる面があるのではないか。世代が定年期に入った今、見かけの迫力や躍動感ほどに馬力がなく、スマートさでも能力でも上回る電気機関車や電車に道を譲らざるを得なかった悲哀は、なおさら身に沁みてくる。
 SLの運転には熟達した技術が不可欠で、未熟だと峠が越えられなかったり、途中で石炭がなくなって長距離走行ができなかったりしたことも、徒弟制度の最後を知る僕たちの世代には感慨深いものがある。「釜焚き三年」と言われたように機関助手からスタートし、先輩機関士からしごかれて初めてSLは運転できるものだった。それがマニュアルさえ覚えれば、経験など無関係に動かせる電気機関車や電車に取って代わっていた経緯は、パソコンを上手に操る後輩を前に先輩としての威厳を失った僕たちの経験と奇妙に符合しているからだ。
 駆逐されたとはいえ、新橋−横浜間の開業から百年の鉄道を文字通り牽引したSLを軽んじてもらっては困る。SLもどきで安っぽいロマンを押し売りされては、腹が立つ。大井川鉄道では満足してしまったが、考えてみれば、レトロを強調されるのも愉快ではない。SL、蒸気機関車は僕たちの青春、そして来し方そのものだ。
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