メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

遠ざかる野分

 今年は台風の当たり年、8月末までに6個が上陸した。その6個目が九州を縦断した日、熊本で半日を過ごし、暴風雨の中を車で鹿児島まで走った。
 熊本で泊まっていた宿では前日から物干し竿を片付けたり、植木鉢を室内に入れるといった慌しい動きが見られ、公共施設だったせいもあり、当日朝には非常食の缶詰が配られたりもした。鹿児島に向かう道筋では消防団員らがかいがいしく動き回り、路上には倒れた木々が散らばっていた。久しぶりに緊迫感に包まれて台風を迎えたのではあった。
 昭和30年代までのことだったろうか、東京でも台風が接近すると人々が慌しく準備に追われたものだった。ロウソクや懐中電灯の電池の買い置きを調べ、不足していれば買い出しに走る。水を汲み置き、庭先の如雨露や下駄や洗い張り用の板といった細々とした物は縄でくくって縁の下に押し込んだ。近所の家々からは雨戸を釘で打ちつける金槌の音が響いた。いつもはテレビの前から動こうとしない隣家の主人が、ステテコ一枚になって屋根に上がって雨どいを補強する姿も見かけたものだ。そう、小中学は臨時休校になった。

 非科学的な言い草だが、台風は夜間に接近したことが多かったように思う。早く夕食を済ましてしまえ、と母に急き立てられ、ラジオの台風情報に神経を尖らせながら、一家で食卓を囲んだことが何度もある。大抵は進路がずれ、大した被害は被らなかったが、風雨の音はすさまじかった。風が息が不気味で、家ごと吹き飛ばされてしまうような恐ろしさを感じたことも少なくない。
 台風一過の翌朝は、近所の主婦たちが総出で家の周りを掃除した。びっくりするほど大きなトタン板や看板が家の前の道に飛ばされてきていて、「大事にならずに良かった」と皆で言って片付けたりもした。空は晴れ上がり、乾いた風がそよいだ。澱んでいたものが吹き飛ばされたようで、空気が新鮮に感じられ、見慣れた周囲の景色も窓の曇りをふき取った後のように鮮やかに映った。
 「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」。枕草子の一節だ。台風と呼ぶより野分と言った方がおどろおどろしく、木々や草草をなぎ倒すように強風が吹き荒れる様が目に浮かぶ。台風のメカニズムを知らなかった分、清少納言たちの恐怖や不安は大きかっただろうが、台風が無事に通り過ぎた後の気分の良さも格別だったに違いない。

 台風が怖いものでなくなったのはいつごろからだろう。建物の堅ろう化や治水事業が進んだせいで、被害の規模は極端に小さくなった。鉄骨とアルミサッシに囲まれた部屋にいると、風雨の強弱さえ分からない。結構なことではあるが、人々の警戒心まで薄れているのは困りものだ。今回の台風でも、暴風雨警報下で屋根の手入れをしようとしたお年寄りが転落死した。風雨に強い住環境が気の緩みを生むように思えてならない。野分と呼んだ昔の心構えだけは、受け継いでいかねばなるまい。

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