メディアの隙間から

10数年にわたるPRマン時代の感性をベースに、メディアに日々接する中で感じた??を徒然なるままにつぶやく。2020年末に本当に久しぶりに再開

数の追憶

 夏が来ると終戦記念日との連想か、沖縄の小学校で長年、教鞭をとった中村文子さんから十年も前に聞いた話を思い出す。
 悲劇的な最期で知られる「ひめゆり部隊」には、中村さんの教え子も何人か看護要員として加わっていたのだが、一人が奇跡的に生還した。その教え子は戦後、教職に就き、中村さんと同じ小学校に勤務した。終戦から一年半ほど経ったある日、二人きりになったのを見定め、前々から尋ねたかったことを恐る恐る口にした。「部隊では、生理の始末はどうしていたの?」
 教え子を送り出した後、中村さんはそのことが気掛かりでならなかったという。男性がそばを通るだけで顔を赤らめた当時16、17歳の少女たちが、狭い洞穴に傷病兵らと押し込められ、女性の悩みをどのように解決していたのだろう。心が荒んだ兵士たちに囲まれて辛い思いをしたのではないか……。
 だが、教え子の返事は意外に明るかった。「それが先生、山ん中に入った途端、なくなっちゃったのよ。私だけじゃなくて、みーんな」。それを聞き、中村さんは胸のつかえが取れた。「やはり神様はいたんだ」。そう思うと共に、体のメカニズムまで変えてしまう戦争の残酷さを改めてかめしめたという。

 第二次大戦中、国内唯一の地上戦の舞台となった沖縄では、県民の五人に一人が死亡した。中村さんの母親も逃げる途中、足手まといになりたくないと銃火に身を投じた。その時、慰めてくれた従兄は機銃掃射に散った。肉親を奪われた悔しさと悲しさ、そして“軍国教師”だった負い目。中村さんは教職を退いた後も、沖縄戦の記録フィルムの保存運動を通じて平和を訴えてきた。
 戦後も米軍の基地を抱えてきたこともあり、中村さんに限らず、沖縄の人々の反戦意識の強さは格別だ。1994年、摩文仁の丘に、敵味方を問わず戦没者の名前を刻んだ「平和の礎」が建てられたのも、悲惨な体験を風化させまいとの強い思いに根差している。
 それに引き換え、原爆が投下された広島、長崎を除く本土では、総じて戦争犠牲者が軽んじられていると映るのはなぜだろう。犠牲者の比率は沖縄ほどではないにしても、北は北海道の釧路から南は西表島に至る列島各地が空襲に見舞われ、多数の非戦闘員の民間人が死傷したことを忘れてはならない。
 戦争を二度と繰り返さぬためにも、悲惨な被害の実相を子や孫へと語り継がねばならない。にもかかわらず、犠牲者の名前はおろか人数さえ確定していない現状はおかしくはないか。国も無責任だ。軍人・軍属については整備された名簿をもとに、連合国軍の占領が解かれた後、それぞれに軍人恩給をはじめとする救援策を講じてきた。だが、同じ戦争の犠牲者なのに民間人については、きちんとした被害調査さえ行っていない。
 沖縄戦の平和の礎や東京大空襲の被災者名簿など一部の地方自治体や民間団体による調査結果があるだけだ。その気になれば当時の戸籍類だってたどれるはずなのに、先達の犠牲を人数、それも概数でしか振り返れない現状は人命を軽視しているとしか思えない。
 全国各地の空襲などで亡くなった在日外国人を含む犠牲者について、可能な限りの名簿を作成して冥福を祈ることが、平和をむさぼる後進としての責務ではないか。「終戦記念日」には大所高所からではなく、中村さんのように、個々の人々の暮らしぶりを検証しながら戦争の罪悪を見つめ直したい。

========  =========  =========  ========